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私の導かれる先

今、アフガニスタンやパキスタンで活動されていた医師・中村哲さんの本を読んでいます。

私も正直、中村医師について、2019年にアフガニスタンで銃撃を受けて亡くなってから知り、初めて詳細を知っていってる途中なのですが、ちょっと失礼な言い方をすると、医師でありながら、井戸を掘っていたような不思議なおじさんです。

最初は、え?お医者さんなのに、なんで井戸を掘るの?と思いましたし、なんかすごそうな人だなぁ〜立派な人なんだろうなぁ〜、と思っていました。

確かに、偉業を成し遂げた方ではありますし、凶弾に倒れた際にはアフガンの人々も非常に悲しんだと聞きました。アフガニスタンの国家勲章も受けたりしているようです。

でも、いくつかの本を読み始めて感じたのですが、「すごい人」としてまとめてしまっちゃいけなんだろうな、「すごい人」で片付けてしまってはいけないんだろうな、と思っています。

なぜなら「すごい人」と括ってしまうと、「私とは違う」「私とは関係ない」という認識になってしまって、その生き様から学ぶことができなくなってしまうんじゃないかと思うのです。

それを中村医師は感じられていたようで、こんな一節がありました。

「事実は小説よりも奇なり」という。アフガニスタンやパキスタンに縁もゆかりもなかった自分が、現地に吸い寄せられるように近づいていったのは、決して単なる偶然ではなかった。しかし、よく誤解されるように、強固な信念や高邁(こうまい)な思想があったわけではない。人はしばしば己を語るが、赴任までの経験を思うとき、生まれ落ちてからの全ての出会い——人であれ、事件であれ、時代であれ——が、自分の意識や意思を超えて関わっていることを思わずにはおられない。
赴任までの経緯を語るのは、自伝そのものになってしまう。しかし、私に分かるのは、そうらしく思える出来事の記憶であって、事実の一部を自分流に垣間見てつなぎ合わせるに過ぎない。

『天、共に在り』26ページ

今、この瞬間を改めて実感すると、この場所にいる。だけれどそれは、自分がそれを望んだとか、そう働きかけたとか、めちゃくちゃ高く掲げた思想があったわけでも、強い思いがあったとかいうことではない。そういうことではなくて、色んな人との出会いがあったからであり、時代背景もあったからであり、たまたまというしかない部分もある。

私は成功者の成功哲学が嫌いなのですが、それは「このときにこうしたから」という成功者の振り返りが、結局その人の独りよがりにすぎない部分が残されていて、本当はそれのみにとどまらず、自分の意思や思いを超えて、その人がそもそも生まれ持った環境やそのときの時代背景や、いろんな要因が絡み合った結果に過ぎないのではないか、という思いからです。

私が成功したのは私が努力したから、と声高に語れるのはその方の自負ではありますが、だからといって成功していないのはあなたの努力が足りないから、
というのは、それに関わる要因が多すぎると思うのです。(とは言え、例えば私が今この現状にあるのは、環境のせいであると言いたいわけではなく、私の努力の結果、足りないことがあるという事実は認めます)

また、他にも

しかし、およそ人の動機というものは複雑である。分かりやすい透明な説明は、どこか作為的である。使命感や趣味の間で揺れながら、「とりあえず医学へ」という程度に近かった。いかにも高潔な精神に燃えて突き進んだように言われると、何か違う。「医学部から農学部へは、転部できるが、逆はない。それに、頑固者の父を説得するには格好の進路だ」と、やや打算的な合理化を意識していたのを覚えている。
とはいえ、ここで自分の願いどおり昆虫学に進んでおれば、ペルシャワール赴任も、アフガニスタンでの活動もなかったに違いない。キリスト教との出会いが、それを可能にしたのである。特にマタイ伝の「山頂の垂訓」のくだりを暗記するほど読んだ。人と自然との関係を考えるとき、その鮮やかな印象は今も変わらない。

『天、共に在り』39ページ

今私は、ご縁があって、未就学児および小学生、中学生に対する学習のサポート事業もやっています。勉学の出来は個人差がありますが、子ども本来の能力を見通そうと思った時、実はまったく変わりはない、個体差はそう果てしないほど大きくはないのでは、と感じています。

つまり、その子が、言葉もわからない頃、言葉がわかり始めた頃から、どんな環境にいて、どんなふうに周りにいる大人からどんな言葉を投げかけられてどれだけの時間を過ごしてきたか、多くの場合はそれは「家庭環境」と言われるでしょうが、個人の生まれ持った能力以前に、その「環境要因」である部分が非常に大きいのではないかと感じているのです。(ノーベル賞を受賞した学者の、未就学児に関する研究を実感しています。)

成功者の言葉は、後付けをすれば、記憶の中から、こんな出会いがあった、こんな出来事があった、こんなことを自分が感じた、と言えるかもしれません。他人はそういう分かりやすい説明を求めますし、筋道が通ったほうが納得してくれます。

だけれど、本人がそう語ることは同時に「たまたま与えられて、たまたま覚えている一部」に過ぎないのではないかと思わずにはいられないのです。

中村医師の本を読むにつけ「流れ着いた先」みたいな感覚も大事だと感じています。

「なんか知らなけれど、ここにいる」というのも大事なんじゃないか、中村医師がたどり着いた先、流れ着いた先はアフガニスタンだったかもしれないけれど、みんながみんな、アフガニスタンに流れ着くわけではないように、

私の導かれ方、【あなたの導かれ方】があるように思うのです。

私の導かれた先は、どこなのだろう?
あなたの導かれた先、導かれる先は、どこなのだろう?

あなたはどう感じますか?

(文責:森本)

1月の答えのない対話会『私の導かれる先〜中村哲医師の生き様から学ぶ』

参考図書

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