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誰を何を信じるのお話

 テレビでは某宗教団体がらみの話が未だに盛り上がっておりますが、アタシは無宗教なので、あくまで”人の生き方としての信仰の問題”とみることができず、もっぱら”騙した、騙された”という類の話に聞こえている。放送の仕方もねえ。悪の組織にかどわかされたヤツはだれだ!みたいじゃんネ。

人間の精神活動全般に興味があったし進行形でもっているけど、信じるという行為については、あまり深く考えたくなかった。キリのなさも沼の深さとして恐ろしいが、単純に「物事について”そう”であると決めて、決定をそれ以降疑わない」事と割り切って考えれば、それ以上考える意味もないように思えたからだ。メタいカンジに言えば、アタシがそう「信じてしまっている」からとも言えるかしら。

信じるという行為を、美しいとか、強いとか評価するような物言いは、信じる内容を強化するベクトルを推進したい側のもので、一面的であり、文脈によるよネ。悪魔崇拝してる人をキリスト教徒が「信心深くてエライねぇ」なんて言わないんじゃないか。

その場面では、本当に強いのは「信じている」と周囲に認識させるだけの、「信じるという決意そのもの」以外の「信じていると思わせるに足る情報が外部に発信されるアクティビティ」を実行に移させる意志そのものだろう。

押し声優の出演するアニメのグッズを、何から何まで買い揃え、動画配信があれば投げ銭をし、保管、鑑賞、実用、布教用と4枚円盤を買っちゃうような信者であれば、それだけ「お布施」をするという経済的流血を強いる行為を実行する「意志力」が、この人は信仰心が篤いのだなぁと思わせるというか。そういや、昨日観てた邪神ちゃんドロップキックのエキュート様の初企業案件動画、12000円のおひねりとか飛んでてコエーってなったのナ。

 しかし、一見「何かを信じている」人の内にも、信じずにはいられない、信じさせられている、信じる他なかった人もいるだろう。これらの信心は、弱さの裏返しというか、弱さ故に逃避として信じる行為に沈溺しているのではないか。何かを信じて疑わないというのは、判断を外部に委託するようなもので、とても楽だろうなと思う。いい事も悪い事も、自分のせいではないというのは、誰の人生を生きているのだろうと思うけど、苦楽の話で言えば楽の方だろう。

 信じるというのは、0か100かの問題だろうか。人間だれしも期待値を持って動く部分もあるのではないか。この娘、あともう一押しでヤれそうだけど、もしヤれなかったら投資分がもったいないな…どうしよう…みたいな経験が、いやらしくも浅ましい男性諸君にはあるのではないだろうか。先っちょだけとか言っていないだろうか。信じる事と期待する事は、同じかどうかといえば違うものだろうが、現実的な用法としては、限りなく近い意味でつかわれる事もあるように思う(今日中に死ぬことは絶対にないと言い切る事は不可能だが、明日があるさ明日があると”信じて”生きてるでしょアナタ)。でも、やっぱり違う事の筈だ。

信じるというのが、疑わない事と同義かというと、それも違うような気がする。信じるという行為の本質は、疑いたい、疑ってしまう心の揺らぎを制御し、信じると決めた方向へと向き直る事にこそあるのではないか。であれば、疑わないという事は、信じる為の「自制」が発生しない以上、別物だ。

つまり、信心、信ずる事とは、洗脳状態のような「判断なしで疑わない」というドモアリガットミスターロボット状態ではなくて、どんなに自身の判断が疑わしくなろうとも、疑いたくなる誘惑を蹴散らして進むメンタルつよつよマンの精神なのではないか。ヤダ素敵。

アタシも「異教徒を燃やせ!神を讃えよ!」とか言ってゾンビの頭をハンマーで勝ち割る仕事に就きたかった。

なんの話でしたっけ。ウフフ。

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