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予想理論はアサマノイタズラに勝てるか?

この番組、昨日の競馬後に気づき、最後までながら見してしまった。直後だったし、他人事と思えず……

市丸さん、とても好い人だけど、パドックを見ない。レースもろくすっぽ見てない。目を覆わんばかりの馬券下手。なのにガツン&ガツンと突っ込んで撃沈……他山の石としたい。

タイムや指数好きを突き詰めると、こうなっちゃうんだな、という学びがある。指数の上位に来ない馬は買えない。当然ながらアサマノイタズラのような人気薄が来る可能性など一瞬も考えない。となると堅い馬券しか当たらないことになりがち。

ちなみにアサマデイタズラではなく、アタマノイタズラでもなく、アサマノイタズラである。いかなる指数も、いかなるデータも、この馬がセントライト記念を勝つと指摘することはできなかった。

こんな超人気薄は客観的な予測と解説ができない。ゆえに専門紙上ではほとんど無印になる。たとえ《力》のある馬だと知ってはいても、それを読者に説得的に伝えるすべがないからだ。「何となく来そうな気がする」では記事にならぬ。原則として活字媒体なるものは、たとえ競馬新聞であっても客観性を旨とする。さもないと読者に見限られてしまう。

私どもの若いころは塩崎利雄の『極道記者』などという小説&映画シリーズがあり、競馬記者など人間のクズのように見なされていた時代である。が、そんなの実際にはファンタジーの世界で、競馬記者もまた職業人にすぎない。というか、昔の記者は職業人のレベルにすら達していない者が少なからず見受けられた。それが「極道記者」という幻想を生んだのだと思う。で、昔の予想記事のレベルが低かったのは事実だろう。

近年の競馬記者は子供の頃からテレビゲームなどで競馬に慣れ親しみ、じつに知識が豊富である。タイム、指数、ラップ理論、血統等々……客観的な知識を競い合う。プロの記者や評論家のみならず、最近では YouTube で予想を披露する市井の人たちの説には耳を傾けるべき蘊蓄や蓄積があり、馬券検討上はなはだ役に立っている。概してどこでも客観性が幅を効かせている。

なるほど客観的であればあるほど説得的で、当たりやすいように思える。読者や視聴者の注目を集める場合もあるだろう。が、そんなの得てして幻想にすぎない。たしかに数字通りで解りやすいレースもあるにはあるが、払い戻しが安すぎて元が取れない。トリガミに終わる。穴をモノにできないと儲からないのだ。穴馬をいかに自信をもって買うかが問われる。しかるに自信とは「自らを信じる」と書く。自分の信念を他人に説得するのは難しい。そもそも自分に自信を持つこと自体、必ずしも容易でない。下手に自分に自信を持ち過ぎると破綻する。

さまざまな種類の指数やデータをいくら駆使しても結果を予測することは難しい。皆んな解っているはずだ。なのに一見ありそうもないことを予想すると他人からバカにされる。あたまがおかしいんじゃないの?と嗤われる。はなはだ屈辱的である。

しかるに、競馬にかぎらず予測しがたい現象は世にいくらでもある。というか、未来予測などまず当たらない。未来はいつも不確定である。明日のことすらよく判らない。ふだんはボーッとして気づかないだけ。ロボットのように家と会社や学校を行き帰りするだけでは、予想外の事件など起こりようがない。

というか都市は不確定性を排除すべく構造化されている。昨日と同じ今日、今日と同じような明日が続くべくプログラミングされているのが都市というもの。毎日意外なことが起きるようでは市街戦状態である。

本当に平穏な日々が永遠に続くのであればけっこうだが、じつのところ私たちの生活のあちこちに《穴》が潜む。なにか突発的な事件が起きることがある。嵐が起こる。地震が起こる。なにか起きて初めて自分が危険に取り巻かれた生活を送っていると痛感する。はたと気づけば、至るところ穴だらけだ。

すべてを《数》で説明できるように振舞うのは科学者の驕りにすぎない。近代の経済学者もまた科学を見習い、数学を手本にして尤もらしい経済予測を行なう。で、ほとんど外れる。はずしてばかりなのに、いやにエラソーだ。というか、驚くほど恥知らずだ。自分らが世界を動かしているかのように吹聴する。実際のところ経済は現象として複雑すぎ、当たったのか外れたのか判然としないケースも多い。言い逃れが効く。

科学者は宇宙を対象とする。宇宙はほとんど無限である。経済現象は地球の人類文明を限界とするが、それにしても無限に近い。

この点、競馬はごく限られた数の馬しか相手にしない。一見すると簡単に思える。ところが、そうであるがゆえに逆に未来予測の難しさが端的に表われる。当たりと外れが歴然としている。ゲートが開いた数分後にはすべて決着する。

そうした枠の決まっているゲームならではの穴をモノにする方法があって、それが総流しである。フルゲートでも18頭、ふだんはせいぜい16頭なので、軸から流せば確実に取れる。

競馬で穴を作ってしまうのは私たちである。決して馬ではない。馬はそれなりに皆んな一生懸命走っているのだから、レースに参加するどの馬にも勝つチャンスはある。有力馬が全部コケれば穴馬でも勝てる。人気薄を作っているのは私たちのほうで、いわば自縄自縛というものだ。とはいえ人気薄が走る確率は低い。その蓋然性を判断するのが競馬予想の妙味である。

馬券になるのは3着まで。だから3着までに来そうな馬を買えばよい。1着に来そうだと思えば単勝、2着が確実なら馬連&馬単……軸がしっかりしていれば総流しすればよい。というか穴をモノにするには、それしかない。

もし軸馬が3着までなら何とか来そうならワイドである。1・2・3番人気で決まることはまずない。意外な馬が飛び込んでくるのは必至で、たとえ安くてもワイドは極めて有効な馬券である。

あるいは3連複&3連単だけど、これは点数が増えすぎ、総流しは不可能。せいぜい3連複2頭軸流しまで。3連単はよほど自信のある場合に限られる。自分の狙った馬が3頭とも上位に来る可能性など至極少ない。なのに流して買うと点数が増えすぎ、カネがむやみにかかってしまう。まして5頭流しの WIN5 など資金に余裕がないと無理。

ところでセントライト記念である。かねてより穴馬アサマノイタズラが気になっていた私は、馬連もワイドも買っていた。乗り替わりの田辺も、いかにも怪しい男だ。1番人気では信用ならんが、人気薄で何かやらかす。だから注目していたのだが、肝心の軸がグラティアス。そこからの総流しだったので、どもならん。

今にして思うと前がかりの展開になるのは目に見えていた。ソーヴァリアントの差しに賭けるのが正解だった。この馬から流すべきだった。戸崎も秋になって目に見えて乗れるようになっていた。これにたいして今年のクラシック組の実力は疑うべきだった。

ダービーにしても上位3着あたりまでが力が抜けていて、掲示板にも載れなかった6着のタイトルホルダー、8着のグラティアスあたりはさほどでも無かったのでは?ゴール前の不利を口にする時点で力不足だった。

休み明けのオーソクレースの取捨にも悩んだ。が、出すからには十全な仕上げをしていたとみるべきだった。いまどきの厩舎は、下級の条件戦は別として、大きなレースではきちんと走れるように仕上げてくる。ルメール先生に乗って頂く馬に粗相があっては相手にされなくなってしまう。馬の資質の高さは誰もが認めていた。

中山10RジャングルポケットCは、屈腱炎で2年1カ月ぶりのパラダイスリーフが圧勝、9カ月半ぶりのモーソンピークが2着。この事実をよくよく噛みしめるべきだったのである。

「オーソクレースの出来は万全じゃないと思うんですよ。ぼかぁ数字にできない人間の目の印象を大事にしてるんで」などと尤もらしい言葉を吐いて、オレの判断を狂わせた競馬記者、往ってよし!

市丸さんのタイムフィルター予想は、ソーヴァリアントとオーソクレースが本命。ゴール前ずばりと当たるか?と思われたが、さらに後ろから飛んできたアサマノイタズラに勝ち切られ、散華。予想に勝って、勝負に負けたの感あり。

前がかりの競馬になるのは解り切っていたのに、その上さらに大外から逃げたワールドリバイバルの津村が、展開をめちゃくちゃにした。ことによるとデムーロはそれとなく察知し、レッドヴェロシティを後方に控えさせ、その末脚に賭けた可能性がある。いかんせん不発。

今回、差し馬に注目する予想が少なかった。先行するクラシック出走馬に誰もが幻惑されていたからだ。大きなレースほど、この意味での「共同幻想」に巻き込まれやすい。新聞やメディアが騒ぐからだ。ただ今回は差し馬にさほど目立つ馬がいなかったのは事実である。その中でアサマノイタズラは留意すべき存在だった。

前に行きたい馬ばかりだった。さらにその前に行ってどうする?バカみたいに逃げるだけで勝てるわけがない。先行する馬から離れよ。その判断ができる騎手が、じつは田辺であることもオレは理解していた。嶋田から田辺への乗り替わりは明らかにプラスだった。なのにダービー好走馬のうち1頭は3着内に入るはずだ、という固定観念に囚われ……

レースではそうデタラメなことが起きているわけではない。現代の馬の育成技術は高度で、血統やタイムを含め競走馬の情報はかなりの程度信頼できる。競馬記者の予想も概して客観的で正確だ。本来はそう荒れるものではない。むしろオッズの不均衡が穴を生む場合が多い。それを見分ける目があるかどうか。

人気に騙されないために出目で買う、騎手で買う。これらは非合理ではない。オッズこそ非合理な場合が多い。

そして何よりもパドック&返し馬である。前人気がどれほど高くても、体重の増減が激しかったり、イレ込んでいたりすれば力どおり走れない。また人気はなくても走れそうな馬を見つけることがある。この戦略がいちばん有効なのは新馬戦だと今ごろになって気づいた。

というのも、人生の大半を寝て過ごし、昼すぎに起きるのが常だった。新馬戦や下級条件戦をやっている午前中に起きていたことがない。ところが、コロナ禍の緊急事態宣言で、このところ夜8時までしか店がやってない。やむなく早く帰宅し、早寝早起きするようになった。

昼間時間があるので新馬戦に手を出すようになった。すると、やけに当たるのである。パドック&返し馬での評価が結果に直結する。気づくのが遅すぎたと地団駄踏み、朝から全レース買うようになってしまった。買ったレースがすべて当たるわけではない。可能性があるレースをすべて買うのではなく、蓋然性の高いレースを絞り込まないと勝てない。そして、その絞り込みがはなはだ難しい。

思えば競馬新聞の記者さんとは因果な商売である。職業柄、全レースを予想せねばならない。予想だけして買わないのは人間のさがに反する。なかには自信のあるレースもあるだろう。だからと言って、買い始めたらきりがない。いくら高級取りでも、毎週毎週朝から最終まで買いつづけるとしたら、おのずと資金に限界というものがあろう。なのに読者から期待されてしまう。これはつらい。「私は買いません」と正直に言えるようにしてあげてほしい。

買う自由があるように、買わない自由もある。そしてこの「がまんする」自由こそが本当の自由なのである。



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