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ミモザのように



 1週間ほど前から花屋の店先で、ミモザの花束を見かけるようになった。しかし2,3日で早くも売り切れてしまった。日本でも新しい風習が定着しつつあるようだ。
細い枝に黄色い小さな花が無数に並んだ可愛らしい姿は、人の気持ちを軽やかにときめかせ、また遠い無邪気だった頃の記憶を蘇らせてくれる。

小学校5~6年の2年間、学級担任としてお世話になった百合子先生のことをふと思い出した。作文の授業中に「文章の書き方」を習った。とても基本的で単純なことだった。

「作文を書く時は、まず始めに事実を述べなさい。そしてその後に、その事実に対して自分が感じたことを書きなさい」

しかしそれまでは、ただ思い浮かぶ言葉を順番に書くのが作文だと思い込んでいた自分にとって、そんな裏技のようなものがあったと知り、子どもながらに目を見張り、心ときめいた。

その説明を聞いた後、「事実+感じたこと」という手順に従い、何かしら作文を書いた。その結果、後日「毎日小学生新聞」豆記者チームの一員となり、学校近くにあった牛乳工場へ取材見学に行き、新聞記事を書くことになった。

すっかり茶色に変色した50年以上前の切り抜きは今でも押入れにあるが、ごく普通の子どもが書くありきたりなもので、特段気の利いた文章でも何でもない。

ただそのことがきっかけとなり、以後文章を書くことに多少興味を持つようになった。ガリ版印刷で学級新聞を作って同学年の児童に配ったり、職員室前の掲示板に貼り出してもらったりした。
また家では日記を書くことが一人でいる時の楽しみになった。中学、高校では、友人との文通や交換日記を書く際にも、「事実+感じたこと」を意識しながら書くようになった。



 百合子先生にまつわる忘れ難い思い出がもう一つある。
 6年生のある日、月に一度の学級会議でのこと。日頃から悪ふざけをするYという名の男子児童がいて、隣に座る女の子に迷惑をかけ困っているという問題を皆で話し合うことになった。

隣の女の子が、日頃のストレスをぶちまけた。それまで我慢していたことを一気に吐き出したようだった。つられて周囲の子どもたちも加わって加熱し始め、やがて収拾がつかなくなっていった。当の男子児童は俯き、じっと身を固くして話を聞くだけだった。

人に迷惑をかけることは良くないことであり、これだけたくさんの子に嫌な思いをさせているのだから、その子は先生から怒られて然るべきとおそらく誰もが思い、密かにそれを期待していたはずだ。
ところがそうはならなかった。

それまで静かに事の成り行きを見守っていた百合子先生が、そこで初めて口を開いた。不平不満で大騒ぎだった教室が、水を打ったように静まり返った。ぽろぽろ涙を流し、声を震わせながら話し始めたからだ。
はっきりと覚えているわけではないが、それはおおよそ次のような内容だったと思う。

「みんなでYさんのことを一方的に責めてばかりいるけれど、どうしてもっとやさしい気持ちになれないの? 人に悪ふざけをするのはよくないと私も思う。でもね、みんなで寄ってたかってYさんの悪口を言っているだけでは何も解決しないんだよ!」

児童の名前を呼ぶ時には女子のみならず、男子にも「くん」ではなく「さん」付けで呼ぶことが、先生からクラス全員に与えられた教室内での決め事となっていた。小学校高学年になったらもう子供ではないという意識を共有するためだった。

その時も先生は「Yさん」と呼んだ。その上で百合子先生から出てきた言葉は、授業中は人に迷惑をかけるようなことは止めなさいという注意ではなく、また一方的な非難や不平不満を言い続けることへの咎めでもなかった。

教師という立ち場からではなく、一人の大人の女性としての繊細さ、優しさ、凛として一本筋の通った心を、包み隠さず曝け出して見せてくれたのだと思う。

その後、学級会議がどのように収束したのかは覚えていない。ただそれ以降、クラスの雰囲気が明らかに変わったということだけは覚えている。
学級会議で誰か一人をやり玉にあげることはなくなった。授業中におしゃべりや悪ふざけをする子もいなくなった。子供っぽさが随分となくなり、落ち着いた雰囲気が卒業式を迎える日まで続いた。




おそらく────
大きな愛に包まれるような、深い安心感を感じたのだと思う。勉強もスポーツも趣味も大事だけれども、それよりももっと大切なことがあると教えられたような気がする。

いや教えたのではない。

子どもの中にあるものを子ども自身が自ら気づくこと、そして未熟な子供から成熟した大人へと成長するとはどういうことなのかを、もうじき中学生になろうとしている子供たちに身を持って指し示してくれたのだ。




 卒業してから数回、同じ中学校に通う女の子二人と一緒に、先生の自宅を訪ねたことがある。その二人にとっても、その学級会議は衝撃的だったに違いない。百合子先生は心の恩師となった。
出窓に花が飾られた静かなリビングルームで、上品なティーカップに紅茶を入れ、客人としてもてなしてくれた。中学校生活の何気ない話を楽しそうに聞いてくれた。その後お会いすることはなかったが、自分が50歳近くになるまで手書きの年賀状のやり取りだけは続いた。

日記は30歳近くになるまで書いていたが、インドで瞑想やセラピー、ヒーリングワークを習うようになってからは、自分の思考や感情を日記に書き残そうという意欲はすっかり消えてなくなってしまった。自分自身のリアリティとは、随分とピントがずれたものになるということに気づいたからだ。

ヒーリングの仕事を始めてからは、スピリチュアル系雑誌にいくつかコラムを書いたり、その頃から普及し始めた初期のパソコンを使い、ホームページを作成した。またクライエント向けのニューズレターをプリントし郵送した。
ニュースレターは百合子先生にも送った。掲載したプロフィール写真を見て、すっかりオッサンになった姿を見て驚いたという嬉しい返事を頂いたこともあった。

noteの記事を書くときも、百合子先生の「作文の書き方」はふと思い出すことがある。「事実」と「感じたこと」、どちらにしても偏り過ぎてバランスが悪いと感じた時には大幅に削除する。
自分で撮った写真を添付するのは少しばかり奥行きを持たせることができると思っている。
「事実」を伝えることの中に「感じたこと」は込められる。「感じたこと」の中から表現できない「事実」が浮かび上がってくる。

百合子先生にnoteの記事をお見せするのは叶わなかったが、教室には花を飾ることを欠かさず、どんな授業でも明るく朗らかな笑顔だったことを思い出すと、きっと今もどこかでミモザの花のように純粋で優し気に微笑んでいるに違いないと思う。


 












Isn't She Lovely (Stevie Wonder Piano Cover)
Jon Michael Ogletree




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