北前船資料館で昆布とのかかわりを学ぶ

昆布の採れない富山県で、何故こんなに昆布が食ベられるようになったのか・・・「北前船」との関係を詳しく知りたくて、高岡市伏木北前船資料館を訪ねました。

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旧秋元家の住宅の後が、高岡市伏木北前船資料館になっており、想像していた以上に立派な建物でした。高岡市指定有形文化財になっていました。

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高岡市伏木は、小矢部川と庄川が合流した旧射水川の河口に立地した湊町。往時は多くの有力な廻船問屋が立ち並び、伏木は大いに繁栄していたと言います。その中心となる「八軒問屋」の筆頭に立っていたのが、靏(つる)屋(堀田家)でした。能登屋(藤井家)などと、渡海船を所有し、交易業を 営み、北前船交易により大いに栄えました。秋元家は、文化年間(1804~1818)以前より、海運を生業とした旧家で、屋号は本江屋。当初は船頭や水主などの宿泊施設を営んでいましたが、後には、長生丸や 幸徳丸といった船を持つ廻船問屋として栄えました。

資料館では、北前船と昆布の話を聞きに来たとお話したら、案内の方が丁寧に説明してくださいました。今まで、資料などで調べてきたことが、さらに理解出来ました。

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加賀藩政時代、越中における最大の産物は、何といっても米でした。千保川の豊富な水量は、砺波平野や射水平野を潤し、豊かな穀倉地帯を形作っていました。また、張り巡らされた水路は、生産された米や肥料などの運搬にも便利だったので、加賀120万石の、半分は越中の米がこれを支えていました。

砺波平野や射水平野に新しく田んぼを作ったり、開墾するために肥料がないと稲の成長せず、収穫量が足りなくなるので加賀藩が北海道から肥料を仕入れていたのだそうです。初めはイワシが肥料になっていたのですが、ニシンがたくさん獲れたときに肥料になったのだとか・・。

北海道に昆布が採れるので、一緒に積んできたというのが始まりです。

当時、昆布はあまり儲からなかったみたいで、ニシンの肥料は、儲かったようです。

江戸時代、加賀藩の藩米廻送によって西回り航路が開かれた後、北前船の 交易が活発化になると、山陰地方の海路から瀬戸内海を通り、大坂へと昆布は運ばれ、玄海灘を通って、鎖国時代に唯一の貿易港だった長崎の出島に。そして、清王朝の中国へと運ばれていました。

また、大坂で大坂商人から薩摩藩に引き渡され琉球へ、または、北前商人や近江商人から薩摩藩、そして琉球へ。琉球で中継された昆布はさらに清へ運ばれたそうです。薩摩から琉球を経由するほうは、「抜け荷」と呼ばれる密貿易を行っていました。

昆布は清王朝時代の中国では、甲状腺の風土病に効く薬とされ、高値で取引されたていたそうです。昆布にはヨウ素(ヨード)が含まれているので、中国人は薬として昆布を欲しがっていました。昆布は高値で取引されたことから、薩摩藩は、これに目をつけました。とはいっても、北海道から遠い薩摩藩ですから、昆布の入手は容易ではありません。そこで目をつけたのが富山藩。富山と言えば薬です。

富山の売薬人は、行商先の地方に組をつくり販売を行なっていましたが、 そのなかに薩摩藩内で売薬を行なう「薩摩組」がありました。

薩摩藩は、領内での売薬を認める代わりに、良質な昆布の提供を求めました。薩摩藩は他の藩に比べ、人や物の出入りに極めて厳しく、経済上の問題から他の藩の商人の出入りを禁じていました。さらに一揆を恐れ、富山藩で盛んな浄土真宗を禁じていたそうです。薩摩組は「宗門などを論じたり、関わらない」と取り決めて、行商の許しを得ていました。当時の薩摩藩は、薩摩組の出入りのみ例外的に認めました。

なぜなら、薩摩と手を組むことは、売薬人たちにとって都合が良く、当時は鎖国をしているので、売薬が和漢薬の材料に用いる薬種は、清からの輸入品に依存しており、江戸時代、日本に入ってくる薬種は長崎の出島からいったん大坂の薬の町である道修町に集まり、薬種問屋を通じて全国に流通していました。高価なため、売薬人も何とかして、薬種を安く仕入れる方法はないかと模索していたのです。富山藩にも都合がよかったというわけです。

富山藩は、昆布を大量に薩摩藩に運びました。

ともに外様大名であり財政も追い詰められて、ゆとりがない状態にあった 富山藩と薩摩藩が密かに手を結び互いに利益を得て、薩摩藩は昆布の密貿易で財政を立て直し、明治維新の表舞台に躍り出たと言われています。。

この壮大な海上の道が昆布ロードなのですねー。

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北前船はいくつもの港に寄りながら、高く売れるものがあれば売り、安いと思う品物があれば買うという「商売」をしながら往復していました。   
伏木の北前船船主の場合は、旧暦の2~3月に米を積んで大阪に赴いて米を売り、帰りには雑貨類を満載し、途中の寄港地で売買しつつ、伏木に戻りました。次に、米や藁製品を積んで東北や北海道に赴き、帰路には昆布、魚肥、木材等を積んで旧暦9~10月にまた伏木へ戻ってきました。

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1往復で、6千万円から1億円とも言われるほどの利益を生み出していたそうです。伏木は寄港地の一つとしてにぎわいました。

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資料館には、日本海を大きな帆を立てて進む、木造船の航行しているパネルや北前船の設計図も飾られていました。

これが現実にあったんだーと、200年前に想いを馳せました。

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資料館になっている、元 秋元家の住宅の主屋は明治20年(1887)の大火で焼失し、その後元通りに建て直されたと伝えられ、切り妻造り、一部2階建て、妻入りで、梁や束、黒壁の構成が美しいアヅマダチ形式の数寄屋風の繊細な造りとなっています。

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表座敷と奥座敷の様子。いくつ部屋があるのかと思うほど大きなお家です。

茶室なども整っていました。

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着物の紋は家紋ではなく鶴や亀。

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そして、主屋から、米蔵に続いている外廊下の横に中庭がありました。

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庭に出ると、当時使われていたニシン釜がありました。おっきいー

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2階建ての土蔵の屋根の上には、港への船の出入りを見張るための望楼が設けられています。上がってみました。狭いし、急だし・・・。

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望楼へと階段をあがっていくと和室がありました。ここに見張り番の人がいたのでしょうか。窓が開けてみてみると、

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今は家々や工場が立ち並んでいますが、昔はすぐに海だったのでしょう。・・・ここから、北前船が行き交っているのが見えていたのですね。

望楼を降りてきたて、その前の蔵には、引札、船絵馬など、船主の生活道具など、貴重な資料が展示されていました。

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引札とは、現代風に言えば商店の広告のチラシのこと。江戸時代から、大正時代にかけて作られました。今でも使えるデザインのものも結構あります。センスいいなー

二階に上がると船絵馬がたくさん飾られていました。

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船絵馬は、船主や船乗りたちが安全を祈願して、自分の船の絵を神社や寺に奉納したもの。また、無事の帰還を感謝して奉納されたものもありました。

神社で見かける絵馬よりもかなり大きく、詳細に描かれていました。

北前船は、高岡からは「ニシン釜」や「塩釜」などの鉄製品、香炉や花瓶、仏具などの銅製品も全国各地に運んだそうです。

昆布ロードに、高岡の鋳物たちも乗っていったのですねー。

さらに明治時代になると、北海道へ移住した富山県民がたくさんいたそうです。羅臼町の70%が富山県にゆかりのある人だそうです。その移住した人たちが、北海道で採れた昆布をふるさとに送ったことで、昆布の消費が拡大したのではないかと言われています。

昆布が、こんなにも歴史で大きな役割を果たしていたんですねー。    

大河ドラマで見たような情景が、現実に起きていたという事実。    色々調べていくと面白い。

先人たちの底力は本当にすごいです。















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