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【編集談義】 友達ってどやって作るんやっけ

この本は創刊号であり、これからいよいよスタート。

一方でこれを書いているのは11月。2022はもう終わりに向かっていて、もう年の瀬。

終わりに向かいつつ始まりの準備を始める気分は新年を前借りしている気分。いいもの作れたらいいな。これを読んでいるあなた、この本はいい感じですか?

さて、2022年を振り返ると程々に遊び、学び、泣いたり笑ったりできていて少し安心。失敗ばかりだったが、あれこれ挑戦してきた自分を認めてあげたいし褒めてあげたい。

一方社会に目を向けてみた。僕が2022年で一番記憶に残っている言葉がある。それは「無敵の人」。ひろゆき氏が言った言葉で、「社会的に失うものが何も無いために、犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラング。」を指す。首相殺傷事件を始め、あれやこれや。マスコミは「そんな人が生まれてしまう政治背景」の言及で忙しそうだ。生活補助をすべきだとか、窓口を設置すべきだとか。

それらをみていて、なんか、とても「そうじゃない感」を感じる。もちろん社会的なサポートは彼らにあるに越したことはない。しかし、もっと根本的で普通なことが問題な気がするのだ。単純に、彼らには「友達」がいなかったのではないだろうか。

ここでいう友達とは、客観的な関係性の名前としての「友達」ではなく、本人が「くだらないこと」「面白いと思ったこと」「ぼやっと考えていること」を共有してもいいと主観的に判断した人間のこと。

関係ない人を殺める事件を起こす前に、今抱えている問題を話せる友達がいれば何か変わったのではと思うのだ。

友達というのは社会が用意できるものではない。そしてカウンセラーでも心療内科でもない。もっと、フランクな、それでいて自由な…こう思うと友達っていったいなんだろう。

それについて考えていくと、今日本で住んでいる人に「友達」ってどれくらいいるのだろう、とか そもそも「友達」ってどうやって作るんだっけ、とか そもそも作れる環境やマインドはあるのか、と深くなってきて僕自身がしんどくなってきた。

創刊号のこの巻では、今を生きる僕たちの「友達作り」について考えてメンバーと考えてみたのでそれを共有する。

簡単にいうと、「一緒に映画見に行け!一緒にライブに行け!」だ。

友達ってどうやってつくるんだっけ

「僕、今ぼんやりと考えてるテーマがあって。友達作りについてなんです。」

ギター談義をしていたはずの編集室。ノダが鳴らすギターのBGMを聴きつつそんなことを共有した。

ぐ「2022年、いろんな事件あったと思うんですけど、その中でも注目っというか、印象的だったのが 無敵の人 の事件。」

アサダ先生「あー、京王線刺殺事件とかのね。」

ぐ「無敵の人の事件って、もちろん無敵の人が生まれてしまったことに社会構造とかに問題があるのはわかるんですけど、そうじゃなくって、相談できる友達がいたら起こらなかったんじゃないかなって考えるんです。」

思い切ってぶつけてみた。

アサダ先生「最近の若い人たちって、恋愛、政治、哲学の話ってするん?」

先生のこの質問に僕ら二人の21才はぎょっとする。そういえばそんな話はしないのだ。

ノダ「しないっすね…」

アサダ先生の学生時代はそのトピックについての話が結構フランクに飛び交っていたらしい。

アサダ先生「俺が大学生の時は部室でギター弾きながら、誰かがゲームしながら、『友達ってどう思う』とか『親友ってどこから?』とか、『ニュース見て俺はこう思った』とか。話してたなぁ。もちろん距離感はわきまえてたけど、普通に話してた。」

部室でそういった話を語らっていた先生の青春時代がなどこか羨ましく、そしてどこか懐かしく感じた。

アサダ先生「そういう抽象度の高い話を話すことで、その人の大事にしてるポリシーとか哲学とかがわかって、もっと仲良くなってた。」

対する僕ら「若い人たち」はどうだろう。恋愛とか政治といった抽象度の高い話はタブーとは言わずとも、少し触れがたいというか、あえて聞かないというか。

アサダ先生「合宿行った時とかどうやった?」

今更の紹介になるがメンバーのノダは顧問のアサダ先生のゼミに所属しているという関係。先日ゼミで行った合宿での一幕から、『若い人のコミュニケーション』を振り返ってもらった。

ノダ「夜中に何人か寝静まってから、起きてる数名で恋愛とか話してた気がしますね。でもそれはギアが変わったっていうよりかは時間の流れというか。」

アサダ先生「時間の流れとかは、そういう話の語りにくさを少しぼかしてくれるよね。あとギアチェンジャーがいたらとか」

ノダ「Aさん、Bさん(ゼミの学生)はギアチェンジャーかもしれないです。」

ここでいうギアチェンジャー、及びギアとは、会話の内容のこと。当たり障りのない話題から、先述した恋愛・政治・哲学・といった抽象度の高い内容に切り替えることをギアを変える(チェンジする)と表現している。

アサダ先生「そういう人がいると、急になに?みたいにならずに話すことはできるよね。」

やはり、僕たちは知らず知らずに会話のギアを変えているかもしれない。ギアを変えた状態での話をできるかどうかが友達かそうじゃないかを判断する基準となるのではないか…?

友達作りのヒントが見えてきた。


理解されないなら。

しかしだ。友達が作りにくいという現状から考えると、どうやら僕らは「ギアを変える」がうまくできない。それはなぜだろう。こんなことを二人に伝えてみた。

ぐ「そのギアチェンジがうまく行かない理由として、僕は『考えすぎ』って概念があるかなって思うんです。っていうのも僕は周りからも『考えすぎ』って言われてて、だから話すのを諦めているというか。」

アサダ先生「それは仕事とかプロジェクトで何かを判断する時?どれとも将来とかちょっと抽象度の高いことを話す時?」

ぐ「どっちもですね…周りにも『就活より、何かを本気で語れる友達が周囲にいるかどうかが怖い』とか話してたら聞いてくれませんからね、さっさと就活頑張れって(笑)」

半分悩みのようなこの質問を、先生はこう解釈した。

アサダ先生「考えすぎって言葉の裏には『めんどくさい』が隠れていると思っていて。思考を停止したら、淡々とやるべき手続きはできるわけ。でも『エントリーシートってなんで書くんやろ』『なんで就活って新卒だけこんな儀式的なんやろ』とか。一個一個考えていくと必ず何か矛盾にぶつかる。でもこなさなきゃいけないから、矛盾点を考えずに無視して進めてしまう。」

目から鱗とはこのこと。確かに目的達成を考えれば、「考えすぎないこと」が最短達成のためのポイントだ。

先生は「考えすぎ」と言う人の真意は、その人が見ないことにしていた 痛いところ を突かれてしまったと思っているのではないかと語る。

僕自身、自分が世にいう考えすぎということは知っている。なので僕の話すことを「意見」として捉えてくれる人が好きだし、考えすぎという人、語ることを「どうせ理解されない」と諦めているのかもしれない。

…この「どうせ理解されない」がギアを変えにくい要因なのかもしれない。


好きを語れない、語りたくない

ノダ 「考えすぎの件と似てるかわからないですけど『好き』を語りにくくなった気がします。サブスクとかでいろんな音楽を聴けるようになったからこそ、『好きな音楽なに?』って聞かれて、みんなが知ってる歌手と答えたりとか。実際はだいぶニッチなバンドがイヤホンから流れてるんですけどね笑」

ぐ「わかる、好きな〇〇って一番普通な質問なのに深いよね。」

アサダ先生「あんまり好きって共有したくないの?」

ノダ 「んー、世間に受け入れられるかどうかじゃないっすかねぇ。」

アサダ先生「それって興味をもってくれる人がいたら伝えたいの」

ノダ 「いるってわかってたら伝えるかもしれないですね…」

アサダ先生「たぶん僕らって人前で言うこと2種類持ってて、大衆的な方と、自分がほんまに好きな方と。ほんまに相手が興味あるってわかったら後者を話すけど、それ自体に結構ハードルがあって。」

なるほど、これが「理解されない」の本質か。
上辺の好きしか話さないから、相手と本当の意味で繋がれない。

受け入れられなくて、好きを拒絶されたくない。だったら上辺の好きを話しておきたい。

これは今を生きる大半の若い人が思っていることではないだろうか。

ぐ「だから、好きをまっとうしてるYouTuberとかがカッコよく見えるんですかね。」

アサダ先生「あると思う。」

好きなことで生きることを体現しているyoutuber は僕らからみると憧れなのかもしれない。

ここで先生がYouTubeこそ友達作りを難しくしているのではないかと切り出した。

アサダ先生「ただYouTubeは伝え方が難しいと思っていて。好きを発信してるとはいえ、見られないと始まらないから、その伝え方は短絡的になってくる。ファスト映画とかまさにそれだと思っていて。」

ノダ「ギターソロ、前奏いらない問題もそれですね」

その視点でみてみるとYouTubeはまとめだらけだ。それも名場面や、要点の切り抜き。それをみただけで、みんなの好きがわかるのだ。

音楽も曲を初めてすぐ歌詞に入ったり、間奏がなかったり。

アサダ先生「でもその短絡的にするあたって、捨てられたところに、僕らの本当の好きが眠ってると思う。」

ぐ 「なんか変ですよね。みんなの好きを知って友達を増やしたいから動画をみるのに、結果そこは『自分の好き』がなくて、結果本心を話せる友達ができない。」

ノダ「でもそれは仕方ないですよね。それが儲かるし。実際僕らもそれをみてるし。」

どうやら上部の好きしか得れない状況はしばらく続きそう。それでは友達はできない。タイムパフォーマンスを意識している僕たちが、手っ取り早く友達を作ることはできるだろうか。

一緒に映画見に行け!一緒にライブに行け!

アサダ先生「ビジネス的な話をすると、今はCDが売れなくなってきたり映画館が閉まっていく現状。でも映画館はただでかい画面で見るんじゃなくて、一緒にみてる人がいるって感覚とか、CDやとタワレコで試聴しまくって決めた一枚を買うとか。そういう非言語な価値を感じられる機会を作らないといけないと思う。

ぐ「とりあえず足を運んでみるってことですよね」

アサダ先生「そう。できればここで友達、友達になりたい人を誘った方がいいんじゃないかな」

僕もノダもぎくっとした。

ノダ「僕ライブとかフェスは一人で行きました…」

ぐ「僕も今年の映画は基本1人でした…」

先生は体験とその共有に友達作りの根本があるのではと語ってくれた。

アサダ先生「映画が終わってからカフェで感想を共有する。それを通してその人のいろんな考えが知ることができる。それこそ抽象度の高い話とか。」

ここで僕は小学校や中学がいかに友達を作りやすい環境だったかを理解した。

ぐ「運動会とか文化祭とかは、体験を通して誰かの思想、考えに触れる機会だったんですね。」

ノダ「要は一緒に映画見に行け!一緒にライブに行け!ってことですね。」

これが結論だと思う。無理に抽象度のあることを語らなくていい。体験を通して相手を聞いて、自分を聞かせて。

そのきっかけとなるのが僕らの愛する文化の役割なはずだ。

誘おう、行こう、そして好きを語ってみよう。

あなたの好きを応援する、そんな雑誌を僕は作れたらなと思うのだ。


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