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人工知能との共同執筆 一時休憩と方法の見直し

8日目までAIと会話をし、会話の中で1編の推理小説を作り上げていくという企画でスタートした本記事だが、ここへ来て、一時休憩と方法論の見直しを余儀なくされている。

企画の初めから、結局は人間が(つまり私が)創作活動のその殆どを担われているという事については、当然の事ながら、理解していたつもりだ。
しかしながら、そこをして、あたかもAIと人間との共同作業であるかのような錯覚をする事は可能なのではないか?という妄想に取り憑かれたところから、本企画がスタートしているのである。

まず、AIには、その機能上から資料の収集を補助してもらう事は十分に可能だろうという考えを持っていた。これには、必要な資料の資料性を良く理解してもらう事が前提となる。何が必要で何が不必要なのかという判断は、明確に指示しなければならない。

第二に、それら資料の収集において、進め方の骨子を、よりAIに寄り添った形に、人間側がシフトしなければならないという点も、私自身、十分に覚悟していたつもりだった。

それでも、不測の事態は起きた。
予想外だった事は、既にAIには小説を作るという行為においての、ある種の先入観が備わっていたという事だ。吃驚したのは、AIがすぐに本文を書き始めようとする事だ。作家によって創作の手順というのは様々だと思うのだが、AIは原稿用紙を前に、いきなり筆を走らせるという、まるでドラマに出てくる小説家のような乱暴なやり方を、あたかも一般的な方法であるかのように理解している。

ここで私が「理解している」という人間的表現を使ったのは、結果的にAIが反応する態度が、擬人化して捉えた場合、そのように判断できるというだけの意味でしかない。実際に起きているのは、恐らくは想像するだに、かつてAIで小説を書こうとした無数の人間の総合的な姿勢を記憶したという事だろう。

私の個人的な小説創作手法の一つに、カード式と言われるアイデアの断片的な書き出し作業がある。
これは別段独創的な手法ではなく、大昔から古典的に使われている方法である。これらはすべてそれぞれがそれぞれとの関係性の無い、独立したアイデアであり、その種類も登場人物の性格設定からトリックの詳細に至るまで、大小様々であり、カテゴライズ不能なアイデアまである。一度組み立てたものを白紙に戻す事もあれば、それらの集合を再構成したり一部を復活させたりしながら、全体を構築して行く。

これらのアルゴリズムをAIに学習させる事も不可能ではないだろう。昔はやったシンク・プロセッサの類がそれに該当すると思われる。整合性や妥当性の組み合わせは、化学物質でいうとイオンのようなものだ。結合が可能なもの同士と、反発しあう(つまり矛盾してしまう設定だ)もの同士は、物語が形成される仮定で、他の作品のストックになるか、採用されて細胞の一部となるか、機械的でシステマチックな自動的演算に代えられる筈である。人間がやるよりもチェックは精密だろうし、勘違いも起きない。

どうやら現段階では、こうした小説作法は、全くAIが学習していないらしい。そして我々がAIに一ユーザーとして学習させて行く事もできない。何故ならば、OpenAIがプロジェクトしているこのChatGBTという学習モデルは、深層学習として他の多くのユーザーとの反応パターンを、ざっくり総体として捉えてしまうからだ。
そして現段階では、AIはまだ、単純な起承転結や1H3W(どのように、いつ、何を、誰が)というレベルでしか学習されていないのである。

シナリオ講座が100あれば、100人の講師がいて、100様の作法が存在する。そもそもにそこに正解はないが、色々な手法をテクニックとして知っておくという知識レベルでの理解は、それをランダムに発動するしかないAIにおいても、有効ではないかと思う。
古くから使われているプロットやシノプシスといった考え方から、近代の手法である「セーブ・ザ・キャット」など、教えられる事は沢山ある。

それが、滲み絵や万華鏡のような偶発的生成物であっても、人間の感情や知性を刺激しうるのであれば、その裏側に本当は哲学や人生観などが何も存在しなくても、それらしく偽装する事ぐらいは可能だろう(実際、そんなインチキな作家なんて沢山いる)。子供が掌の中に何かを大切に隠し持っていて、大人の関心を惹きたいような態度だ。掌が空だと知っている大人は、子供の遊びにただ付き合っているだけなのだ。

しかしそんな使い方は、CGにせよDTMにせよ、我々人類が望んだ形ではない。我々が本当に望んでいるのは、表現の純化の為に、煩雑な作業を負担させる事であって、そこから新たなアイデアが誕生するなどと妄想するのは、かつて中世に行われたアミノ酸を発生させようとした生命起源の実験に似ている。

つまり絵画において、CGを駆使しようとも、まるで脳内に何もイメージを持たない人が、何も表現できないのと同様、文芸作品においても、原稿用紙と万年筆のみを用いて、一編の作品を作り出す能力無しに、いかなる近代的なツールを使おうとも、作品を作り出す事は不可能なのである。偶発的に現れたパターンを評価する目がなければ、それらを必然に変えていく精度を高めて行く事ができない。

我々人間が、その表現の純化を更に研ぎ澄ます為に、煩雑な作業から開放されるのは、大変有り難い事だ。実際に、少し前まで大勢の人間が関わらなければ完成し得なかった劇場用映画などが、低予算・少人数で実現可能になっているではないか。

それには、道具の限界を正確に評価しなければならない。コンピュータ神話のような幻想を信じている人々は、機械に芸術が為し得ると、本気で信じているように思える。残念ながら、まだまだ、作家でない人が作品を作る事はまだまだ出来ない。ただ、楽譜も読めない人が作曲出来たりするように、創作に多くの生活を充てられない人や、根気の続かない人だったりが、表現物を完成させられる時代にはなったのだ。これは喜ばしい事である。
それを、小説に置き換えるならば、調べ物が得意な編集者が作家の作品における時代考証や取材をサポートするのと同じように、個人の小さな力で、知識や取材力をカバーするために、コンピュータという文明の利器を使う事が可能になった時代なのだと言う事だ。蘊蓄野郎のうんち君はもう要らないのだ。むしろ、人間対人間(作者対読者と置き換える事もできる)のコミュニケーションや喜怒哀楽といった、純粋に人間的な情緒のみが、その表現物の真価となり得るだろう。

ああ、私は何も、ここで文明論を披露しようと言うのではない。
明日からの、この「人工知能との共同執筆」という企画の進め方を、改めようと言うのが、この文章の趣旨だ。

まず、AIとの会話を記述する前に、これまでに決まった設定を記述する。そして、その回でAIから引き出したい情報やアイデアを記述し、その後にAIとの会話記録を提示したのち、最後に、そのやり取りの反省点や収穫をまとめようと思う。

これからも、このつまらない企画を、暖かく見守ってください(笑)。


2023.3.20


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