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親愛なる吉田さんへ

2023年11月19日
鈴鹿サンデーロードレース最終戦
jsb1000
その日は晴天でいつも通りのレース運びでした。

最後のLINE。いつも探されていました。

いつも通りテーピングとコンディショニングをしながら話した事は僕の再来年の目標と今後のレース業界の行く末と息子さんの事でしたね。
今の日本では先が無いから息子さんがもし本気でするならばアジア行ってからイタリアに行かせたい‥と。

サーキットでは、いつもハイエースの荷台で施術でした。

そして運命のJSBのレースが始まりました。
グリッドに着いた時、いつも通りグータッチをしましたね。
レースがスタートして一周目はいつも通りの安定したベテランの走りでした。

おそらく10周のレースの8周目あたり。
僕はST1000のポンダーを返却していて見てなかったです。
ピットに帰ってきたら赤旗でマシンが炎上しているとの話でした。
ウェイティングエリアに続々と帰還するマシン達、いち早くicuがいない!!と誰かが言っていました。
しかし、その時点ではチーム員みんな吉田さんは無事を信じていました。

でも、いつまでたっても帰ってきませんでした。
色々な知り合いに情報収集しました。
でも埒が明かないので奥さんと一緒にメディカルに走ることにしました。
同時にメディカルの入り口ピット裏に炎上した車体が引き上げられていました。
マシンには・・・24と記載されていました。
その時、カラダの震えが止まらなかったです。
奥さんは隣で泣き崩れていました。
背後からスタッフに呼ばれメディカルでは一人しか入室できないと言われ奥さんが入室しました。
入室前に奥さんから息子さんをお願いと言われて大丈夫と答えました。
ドア越しに聞こえた奥さんの声を忘れる事は出来ません。

その後の記憶は曖昧ですが、息子さんは黙々とピットの片付けをしていました。
チーム員も無言で片付けをしていました。
そんな中、奥さんから連絡を貰い、鈴鹿中央病院に搬送されたとの情報でした。
奥さんからは今後の指示はモトキッズの樋口さんからという事でしたが樋口さんも奔走されていた為、情報が下りてこず取り合えず鈴鹿中央病院に皆で行くことになりました。

僕は息子さんと一緒に吉田さんのハイエースを運転して病院に行きました。
心の中でずっと「平常心・平常心・・」と唱えていました。

鈴鹿中央に着いた時にチーム員であるO君と合流し病院内に行きました。
廊下の奥に奥さんはいてましたが一緒にいた息子を来させないように指示されました。
僕は息子さんと病院の外に行き「ジュースでも飲もうか」と言って一緒に外のベンチで座っていました。

薄々、わかっていました。この時点で。
でも、やっぱり信じられない気持ちが沢山でした。
意識不明の重体・・・くらいではないのか?くらいの気持ちでした。

ベンチに大谷君が来てくれたので少し中の様子見てきますと言って奥さんのところに行きました。
奥さんは鈴鹿サーキットの職員と話をされていました。
そこに近寄った時に「私、葬儀場なんて知らないから・・・」と言っているのを聞いた瞬間、心臓が一気に早くなるのが分かりました。
生まれて初めて足に力が入らなくなってその場に座り込んでしまいました。
数時間前まで話してましたよね?
来週のミニバイクのレースサポートで来てくれるって言ってましたよね?
来年は関東の方のサーキット走ってみたいっていってましたよね?
僕のバイクのパンク、誰が直してくれるんですか?
一気に沢山の思いが溢れて40過ぎたオッサンが病院の廊下の真ん中で泣き崩れてしまいました。

奥さんは「ゴメンねゴメンね」と横に寄り添ってくださいました。
そんな中、背後から息子さんが来ていました。
奥さんは息子さんに事実を隠したいと思っていたので僕も泣いていたら気付かれると思い何とか立って天井を見ていました。

その後の病院での事はあまり覚えていません。
しかし、僕は吉田さんの家の近所である事から一旦息子さんを大阪の家まで送り届けるという事になりました。

帰りの車はほぼ無言でした。
息子さんも疲れたのでしょう。助手席で寝ていました。
本音で言うと寝てくれていて助かりました。
帰りの車中で奥さんから電話があり息子さんは何か気付いているかと聞かれましたがほぼ無言でしかも寝ていた為話はしてないと伝えました。
奥さんからの電話の時は息子さんは起きていたのですが、電話が終わった後も息子さんは何も言わず黙って乗っていました。

おそらく、既に察していたのでしょう。
小学生の子供ながら僕に気を使ってくれていたんでしょう。
そんな雰囲気に胸が張り裂けそうになりました。

鈴鹿から大阪まで約2時間を無事に走り切りお家に着いたら長男君が迎えてくれました。
僕はどこまで情報が回っているか不明だった為、明るく「またね!」と言って一旦家に帰って送り届けた旨を報告しました。

その後22時頃に近隣の葬儀場に吉田さんが来ました。
奥さんの許可があり、お顔を見る事ができました。
今にも起きて話出しそうでした。
悪い冗談のようでした。
でも、眼の前に横たわっているのは紛れもなく吉田さんです。

この時にはもう何も考えられなくなっていました。

思えば吉田さんの出会いは運命的でした。

原田さんがお亡くなりになられてから、どうしたもんかなと思っていた時に、たまたま家の近所のバイク屋さんで仕事用のバイクを探しているとバイクショップicuの看板を目にしました。

本当に偶然でした。
スリックタイヤのR1が置いてあってゼッケン99が付いてて、赤と青のキカイダーみたいなカラーリングで。
話を聞いたらJSBで走ってて今年は8耐に出るっておっしゃってて‥。

まさか近所にこんな人がいてたなんて思いもしませんでした。
僕は自分を売り込みました。
icu racing teamとトレーナー契約してもらえませんか?と。

こんなどこの馬の骨かもわからない僕を吉田さんは優しく迎えて下さいました。
ほんとうに感謝しかありません。

お金なんかもらった事無かったけど(笑)

これ、サイン頂いた時めちゃくちゃ嬉しかったんですよ。
本当に。
このサイン頂いてから毎年毎年鈴鹿でレース帯同させて頂いて、徐々に知り合いも増えて僕も担当出来る方が増えて‥。

沢山ケガして手術して‥
復帰大変でしたよね(笑)

僕は17くらいからバイク好きで乗ってますが、こんなに鈴鹿サーキットに来る人生になるとは、こんなにレースに関わる人生になるとは、こんなに沢山の素敵な人達に囲まれる人生になるとは思いもしませんでした。

その人生のきっかけを作ってくれたのは他ならぬ吉田さんです。

沢山の事を教えていただきました。
トレーナーだけではありません。
人生の先輩として。
なんやかんやありましたが尊敬していますし、今でも大好きです。

だから、僕は出来るだけレース業界から身を引く気はありません。
吉田さんに教えてもらった事を数多くのレーサーに還元したいと思っています。

その為に僕の目標は宣誓になりました。
必ず達成して、いつか息子さんのサポートが出来るようにしたいと思っています。

見ていて下さい。
そして、向こうでお会いした時に「先生、やるやーん」って言ってもらえるように頑張ります!

だから、
だから、
ゆっくり休んで下さいね。

本当にありがとうございました。


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