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バグダッド・カフェに関する私の考察

私のナンバー1映画「バグダッド・カフェ」を約20数年ぶりにニュー・ディレクターズ・カット版で見たら、
やはり今も不動のナンバー1だったという話。
(ネタバレ含みます)


最初に見た当時20代だった私は、なぜこんなに心を動かされたのかわからないが、
子供のいない主人公ジャスミンに共感してしまったのが大きいと思う。
そして太った体と異国での疎外感。
これらに、レールを外れながら生きていた自分を投影させていたのかもしれない。

結婚してずっと子どもを授からなかった私は、「子供がいなくても仲良しの夫婦」の話を探していた。自分の中で納得できる答えを探していたのだと思う。
いくら望んでも叶わないことがあると私は知った。
「子供はいないの」と言ったジャスミンの哀しげな横顔に私は自分を見ていたのだと思う。

さて先日私はニュー・ディレクターズ・カット版を見て、当時とは全く違った視点に気づいた。
傷つき弱った人々が、諦めや修復を繰り返して、ちょっとづつ未来を作っていく。
どうしようもない現実に頭を掻きむしっていたブレンダが、旅行者ジャスミンと出会い、変化していく。その道のりがたまらなく愛しい。

また、ブレンダという存在が、異質な旅行者を「怪しい」と警戒して拒む点も、現代のアンコンシャスバイアスをイメージさせる。
そういう意味で、私はこの映画の「疎外感・多様性・将来性」に惹かれているのかもしれなかった。

この映画の良さをいつも言葉でうまく表現できないのだが、唯一言えることは、
「バグダッド・カフェ」を見ると許された気持ちになる
ということなのだった。

一方、20代の時には気に留めていなかった存在が今回気になった。彫師デビーの存在だ。カフェで起こるいざこざを、チラチラ横目で見ているだけの存在なのだが、最後を大団円にしない爪痕を残す。

「仲が良すぎる」といって、みんなの元を去っていくデビーを「なぜ?家族同然なのに」と引き留めるカフェの人々。
私は最近気づいた自分のある習性を思い出したのだった。

私は一ヶ所にとどまれないタイプで、これまで転職を繰り返してきた。
長くいてもせいぜい3年。
仕事に慣れて、チームとも仲良くなってきたころ、「そろそろここを出る時だ」と思ってしまう。当然会社の人は「なぜ?」と言う。「せっかく仲良くなったのに寂しい」と。

コンフォートゾーンにいると、そのぬくもりに慣れてしまうのが怖くなってしまうのかもしれない。また、デザインという仕事は、スキルアップの繰り返しなので、ここでできることはやった、さあ次のステップへ、と思う頃はだいたいチームと仲良くなっている頃なのだ。

だからありがたいことに「惜しまれつつも去る」ことを繰り返してきた。
なんなんでしょうね、これは。
奇しくもデビーは彫師という「クリエイター」でもある。
そもそも安定や快適を求めたら、バグダッド・カフェに居着くことはなかっただろうが、彼女はずっとその不確実な場所を自分の居場所にしていた。
バグダッド・カフェが Too much harmony(訳・仲が良すぎるのよ)になってしまって、ここを去っていく彼女の存在は、この映画をまた一段と、どんな人間がいてもいいのだという懐の深いものにしている。


バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版
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