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執念の男、赤木正雄

ウィストン・チャーチルは「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」と語ったが、ここ立山にはこの言葉を覆す、偉大なる人がいた。その名は赤木正雄さん(1887-1972)だ。

後に防砂の父と呼ばれた赤木さんは、唐沢俊樹氏著作の「防砂一路」の中で、次のように評されている。

嵐が去れば凡ての人は災害を忘れる。晴天の下いつも嵐の襲来を忘れず、嵐に備えよと叫ぶ人。これが赤城博士である。

立山は火山活動と浸食作用で形成された日本最大規模の崩落地形であり、富山平野に暮らす人々は、度重なる土砂災害に苦しめられていた。その地域課題に立ち向かったのが、赤木さんであり「砂防(SABO)」という防災の分野を確立された。

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赤木さんは、新渡戸稲造博士の「治水のことは決して華やかな仕事ではない、しかし、人生表に立つばかりが最善ではない、ここに集まった諸君の内一人でも治水に命を捧げ、災害の防止に志すものはないか」との訓示を聞き、砂防に一生を捧げることを決意。

1923年には砂防工学研究のためにウィーン農科大学に私費留学

1929年には、日本各県で行われている砂防工事の計画・内容を集大成にした「明治大正 日本砂防工事々績ニ徴スル工法論」を執筆。一つ一つ、自分の道を歩まれた。

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昭和初期。国から砂防工事を委ねられた赤城さんは、常願寺川の調査を行い、「砂防工事はできる」と判断。その上で自分自身に二つの問いを立てる。

川底の侵食を防ぎ、山脚、山腹を崩壊しないようにするには、川底の高さを40m以上高くする必要がある。今までにない高さを持つ砂防堰堤をどのようにして作るのか?」
白岩地点は岩盤が露出しているが、左岸側は岩盤線が深く落ち込んでいる。(過去に、)富山県の施工した堰堤はこの左岸側が破壊されている。この左岸側をどのように処置すれば良いのか?

いくつかの展示を読み解くと、赤木さんは「常願寺川砂防工事の最も重要な問題は、この川筋で唯一の岩盤が露出する地点。白岩での堰堤の建造方法である」と考え、自身でコンクリート防砂堰堤を設計し、工事施工も近代的な手法(テクノロジー)で乗り越えていった。

近代テクノロジーの一つは、コンクリートミキサーの稼働

二つに、施工時の危険な作業は人手からクレーンによる作業に変更したこと。

三つに、従来は人が背負って運搬していた工事資材(セメント樽)をトロッコにより運搬に変更したことである。

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何がすごいって、赤木さんの凄いのはここから。(だと、勝手に感じた。)

51歳になってからも現役で、砂防の普及に注力される。地域レベルの話が国レベルの話へ。視座がどんどん高まっていく。立場、役割を変えて新戸部博士の訓示を聞いて決断したことをより高次元で遂行される。

1938年の阪神大水害が発生した時には、末次内部大臣の現地施策に随行。砂防の必要性を説き、国家予算を増額させて内務省(現:総務省)に砂防に携わる第三技術課を新設。

1939年には全国にこの取り組みを普及させ、7府県に砂防課が新設。

その後も、海外にも「河川工事より砂防工事を先行すべき」と、米国大統領直属の最高技術委員会ローダーミルク会長が治水の視察の為に来日された時にご説明をされ、Saboが国際語になった。

その後、85歳で亡くなるまでには、建設省(現:国土交通省)河川局に砂防部が設置するなどご尽力された。

初志貫徹。

自然に恵まれた立山に、こんな人が関わっていたことを知り少しアツくなった。

僕の北陸の旅は続く・・

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