今回取り上げるのは、1957年に米国で発行された Vance Packard の “The Hidden Persuaders”。
日本語に訳すと、「かくれた説得者」というところか。
1950年代に、米国の広告主が、消費者の動機づけの研究や深層心理学を取り入れ、製品に対する欲求を誘発していく手法を開拓していく様を伝え、現代につながる消費主義の舞台裏を白日の下に晒してくれる。
ダイヤモンド社から翻訳版が出ていたようだが、すでに絶版。
幸いネット上で原文を見ることができます。
販売戦略上のジレンマ (1950‘s、米国)
戦争の後遺症に喘ぐヨーロッパ諸国を尻目に、1950年代の米国は経済的な繁栄を遂げていた。潤沢な資本を再生産に投資することでさらに大きな富を得るとともに、生産量も拡大していく。
しかしここで問題が生じる。
ある程度モノが行き渡ると、人々は「すでに持っているものに満足」していくのだ。企業の生産能力はますます拡大していくのに、それに見合う需要が見込めない。消費者が「購入しない」という選択肢を行使した場合、大恐慌は遠い未来のことではない。
もう一つの問題。
売上を上げるため、企業は市場調査を行うのだが、たびたび「深刻な損失」に見舞われる。従来の論理的アプローチ(ノーズカウント)の「仮定」が間違っている!
モチベーションリサーチ
どこが間違っているのか?
行きついた答えは、
人々が自らが欲しいものを知っていると仮定することはできない
人々の欲求と嫌悪について真実を話すと仮定することはできない
人々が合理的な方法で行動することを信頼できると仮定することは危険である
人々は合理的ではない。しかし、人々は目的を持って行動する。
彼らの行動は、その 目標/ニーズ/動機 の観点から考えると理にかなっている。それが人々を理解したり操作したりする秘訣なのだ。
人間の意識には、以下の3つの主要な関心レベルがある。
意識的レベル
何が起こっているのかを知っており、その理由を知ることができる。
潜在意識レベル
自分の感情、感覚、態度の中で何が起こっているのかを漠然と知っているかもしれないが、理由を言う気がない領域を含む
無意識レベル
自分の本当の態度や感情を認識していないし、言語化もできない。
単純な市場調査では、正解が出せない。
消費者の「意見」を聞いていてもダメなんだ、本当の動機は本人も気づいていないのだから。
このことに気づいた広告会社やマーケターは、本人でさえ気づいていない消費者の隠れた動機を探るため、深層心理学者や社会学者を招き入れる。
深層分析/動機分析の結果、潜在意識のニーズ/憧れ/渇望などを研究することによって、多くの満足のいく手がかりを手に入れた。
以下、項目だけを並べる。(第7章 “Marketing Eight Hidden Needs”)
emotional security (感情的な安全)
reassurance of worth (価値の安心)
ego-gratification (自己満足)
creative outlets (創造性のはけ口)
love objects (愛の対象)
sense of power (パワー感)
a sense of roots (ルーツ感)
immortality (不死性)
隠れた動機を探り当てることで、ビジネスを成功に導ける。
経済学者や哲学者たちは、自分たちの知的水準を通常のレベルと考え理論を展開しがちだが、ビジネスの世界は違う。最高の頭脳を集めて、大衆を現実的に操作する方法を具体的に探っていく。
「消費者のニーズを操作する」
ビジネスを成功させるには、消費者の潜在意識まで視野に入れ、そのかくれた動機を探っていく。そしてその手法で成功を収めることができるのだから、さらに進めて、潜在意識にあるかくれた動機を操作すればよいということになる。
隠れた動機を操作することで、さらにビジネスを発展させられる!
消費を促すには、おもわず買いたくなるようなイメージ作りが必要。
市場は、きらびやかで魅力的な商品であふれ、われわれ消費者はそれらの中から気に入ったものを選ぶことができる。まるで国王か女王にでもなったかに思える。
判断力がまだ身についていないような若年層に対しても、積極的にアプローチしていく。将来の購買層を拡大するために。
必需品は、一通り家庭に行き渡ると、それ以上の需要が見込めなくなる。それではダメだ。継続する需要を創出するために、「流行」というものを作り出す。
1957年に出版されたこの本の内容は、今ではビジネス書のどこにでも載っているような常識になっている。つまり、1950年台の米国のこの活動が、現代のビジネス戦略とともに、「消費主義社会」の基礎を築いたということだろう。
問題点
消費者の深層にある隠れた動機を読みとって販売につなげる。
消費者の深層心理を操作して、市場を拡大させる。
しかも、新聞やテレビなどの発展で、「これまで不可能だった規模で非常に短い時間で」善悪を行う力を持つようになった。
「経済の発展のため」という理由だけで以下を行うことは、道徳的に正しいのか?
たとえば、
主婦が家族の食べ物を購入する際に非合理的で衝動的になるように仕向ける。
製品を販売するために、私たちの不安、攻撃的な感情、不適合の恐れなど、隠れた脆弱性や誘惑されやすさを利用する。
自分の行動に責任がもてる年齢に達する前の小さな子供の心を操作する。
「心理的陳腐化」を感じさせることにより、浪費する態度を推奨する。
大企業幹部と、広告代理店が共闘して、消費者の感情や衝動を操作してく手法が、発展したますコミュニケーションの力を借りて、ますます肥大化していく。「生産プロセスに奴隷化された文化」が、ますます発展していく。
おわりに
物を売買したり、宣伝したりすることは、必ずしも道徳的に間違っているわけではない。
しかし、広告と消費主義が、私たち自身で決定させるのではなく、私たちがどのように生きるべきかという特定の見方を採用するように私たちを操作する。
流行りの衣服や、大きな車を買ったり、グルメな食事をするよう急かされる。
「それが幸せというものですよ。」
そんな幸せを得るためには、時間とエネルギーをかけてお金を稼がなければならない。
「それに成功した人が勝者というものですよ。」
より「勝者」になりたくて、でも思うようになれなくて…
裕福な生活がうらやましく、パッとしない自分の生活が惨めに見える…
流行を見にまとうため、古くなったものを捨て、流行りのものを買い漁る。
こんなシステム、どこかおかしい。