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10分でわかる「ブラックスワン」 - 超要約と読解ガイド -

#ナシーム・ニコラス・タレブThe Black Swan  は、経済学的、哲学的、論理学的、数学的、あるいは教科書的でもなく、著者は「エッセー」と呼んでいますが、タレブ氏の幅広い溢れんばかりの知性とトレーダーとしての実践的な経験や知識が、次から次へと披露されて、「 #ブラックスワン 」と彼が呼ぶ、予期せぬ大惨事を解き明かしています。逸話の豊富さはある意味で理解を助けてくれますが、同時に読者としては時として混乱に陥り、頭の整理に苦労することになります。そのため難解なイメージのある本です。

今回すべての章の要約版を作成できたので、次のステップとして、より早くまた正しく理解し易くするため、この「超要約と読解ガイド」を作成しました。内容は、この著作「ブラックスワン」の「超要約=要約の要約」と、その構成の説明をします。


まずタレブ氏はプロローグにおいて、ブラック・スワンの定義として、三つ子の特徴、①異常であること、つまり過去に照らせば普通に考えられる範囲の外側にあること、②とても大きな衝撃があること、③異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりするような事象であること、を挙げています。

そして、プロローグに続いて、第一部から第四部の構成になっています。

まず、第一部(第1章~第9章)では、「私たち人間が知識をどう扱うか」「私たちが実証的証拠よりも逸話のほうを好む」「私たちの見方にどんな歪みがあるか」等の問題を検討しています。

第二部(第10章~第13章)では、「私たちが予想するときの様々な間違いと限界」「一部の『科学』のよく知られていない限界」を扱っています。

第三部(第14章~第18章)は、極端な現象をさらに深く追求し、「壮大な知的サギであるベル型カーブ」、そして「フラクタル、ランダム性」等について論じています。

そして、最後の第四部(第19章)は、まとめとなっています。

第一部

第一部は、「私たち人間の性質のせいでブラック・スワンが見えない」 点を中心に論じていきます。

第1章は、いかに歴史が不透明なものか、実証的でないかを説明します。人間の症状は、なにか起こった時に、1)自分でわかったと思い込み、2)振り返ったときに、後付けで物事を理解し、3)今の情報を過大に評価します。これらの性癖により、複雑な現実が簡潔な形に姿を変えたり、分類されたりして、歴史は複雑さを無くしていきます。世界を単純化することにより、不確実性の源を無視することになり、そういうところにブラック・スワンが生まれます。

第3章において、「拡張可能性」について説明します。印刷技術や録音技術により成功者の利益はどんどん大きくなり、グローバル化も拍車をかけて、不平等はますます拡大していきます。これにより、皆の体重を比較するような「月並み国」(不確実性、ランダム性が低い)と、億万長者から貧民まで財産を比較するような「果ての国」(不確実性、ランダム性が高い)に分かれます。まさに、われわれが今住んでいるのは「果ての国」であり、この高い不確実性、ランダム性がブラック・スワンを生み出すのです。

第4章にて、バートランド・ラッセルの帰納の問題を例に出します。1000日間飼われていた七面鳥が感謝祭の前日にツブされるという話です。七面鳥が1000日間エサを毎日もらい安心感がどんどん高まっていた時、実はリスクがもっとも高まっていたのです。七面鳥にとっては、まさにブラック・スワンでしたが、鶏肉屋にとってはそうでないわけです。このようなブラック・スワンを生じる帰納的な推論の問題(経験から推測する間違い)は至るところにあります。そして、私たちはそれらを絨毯の下にしまいこんで、そんなものはないと自分で自分に言い聞かせているわけです。

第5章から第9章まで、私たちがブラック・スワンを見ることができない理由をさらに説明していきます。

第5章は、自分の説に合った過去の例を探して、それを証拠とする誤りについて述べています。つまり「可能性があるという証拠がない」だけで、それを「可能性がない証拠」と考えてしまう誤りです。言葉をかえると、「観察された事実から一般的な法則を築くことの危険」であり、ブラック・スワンが見えなくなる理由なのです。

第6章では、私たちは、ものごとについて講釈をつけたり、単純化したりするのが好きである点を示します。抽象的なこと、複雑なことが徹底的に嫌いなのです。そして講釈のついたブラック・スワンは分かりやすく、過大評価される一方、講釈のつけられない、誰も話さないブラック・スワンは過小評価されてしまうわけです。

第7章において、人間は基本的にブラック・スワンに向いていないことを示します。私たちの遺伝子は、少額の報いが頻繁に続いて起こることに喜びを見出すようになっています。従い、いい方のブラック・スワンも悪い方のブラック・スワンも、人間はそれらを意識する能力が本質的に弱いと言えます。

第8章において、負けた者、死んだ者などが「物言わぬ証拠」となっていて見えないため、勝者、あるいは生き残った者は(ただ運がいいだけだったのに)、それを「因果」として説明しがちだ、と言います。そして進化は最適な答えを出すように動いていると考え、人間は行き過ぎた楽観主義に陥ってしまいます。その結果、ブラック・スワンを生み出す強いランダム性に考えをめぐらせることが出来なくなります

第9章において、プラトン的知識(がちがちに固まった、枠にはまった)と非プラトン的知識について説明をしています。そして、本当の不確実性が、カジノなどのギャンブルやゲームなどのルール化された不確実性と全く関係がないこと(カジノなどの不確実性は「お遊びの誤り」と呼んでいる)を説明します。人は、素性のはっきりした不確実性の源ばかりに集中しすぎることを指摘します(これを「トンネル化」と呼んでいる)。そして、なかなか思いつかない不確実性は無視してしまうわけです。

第二部

第二部は、「私たちは予測ができない」という点を主に論じていきます。

第10章にて、私たちは自分が知っていることを過大に見積もり、一方で不確実性は過小に見積もる傾向があることを論じていきます。そして、それが私たち(専門家も含めて)の予測の大きな誤差率につながっているわけです。そんな中で予測において重要なことは、①バラツキに大きな意味があること、つまり実際に意思決定する方針は、結果の期待値より結果がとりうる範囲のほうで決まること、②予測期間が長くなれば予測も劣化することを勘定に入れること、③予測する変数の強いランダムな性質を見誤る傾向になることを認識することなのです。

第11章にて、私たちの予測能力の限界について述べていきます。人類の歴史において、世界を変えた大きな発見の多くは、偶然見つかったものが多いのです。それであれば、予測されていなかった発見で大きな変化が起こることは予測できなくて当然です。また反復期待値の法則から言って、もし予測が正しくできていればその時点で発明が実質的にされているのと同じになるということを説明します。従い、理屈から言っても正しい予測はできないことになってしまいます。

第12章において、人の問題として、明日のことを考えるときに、昨日のことをその前にどう考えていたか、を思い出せないという点について述べていきます。この振り返るのが苦手な欠陥のせいで、自分の過去の予測とその後に実際に起こった結果の違いを学習できないのです。実際に後向きの過程は極めて複雑です。世界の歴史は同時進行でおこる何十億もの事象で形造られています。これをリバースエンジニアリングでその方程式を突きとめることは人間にはできません。そうであるならば、世界はランダムなものであり、予測は不可能と言わざるを得ないのです。

第13章にて、10章からの「私たちは予測ができない」という議論のまとめとして教訓を提示しています、それは、大掛かりで害の多い予測を不必要にあてにすることはやめた方がいいということです。そこでブラック・スワンに対する対処法としては、いい偶然と悪い偶然を区別し、細かいことや局所的なことは見ないで、チャンスやチャンスみたいに見えるものには片っ端から手を出すということになります。

第三部

第三部では、不確実性を掘り下げます。ベル・カーブの問題とその誤った理論についても言及します。

第14章において、この世界では、弱いランダム性から強いランダム性に移り変わっていることを説明しています。強いものはより強く、貧しいものはより貧しくなるわけです。グローバル化やネットワーク化により果ての国では、危機自身はますます起こりにくくもなっていますが、起こる危機ははるかに深刻になったと言えます。

第15章では、ベル・カーブがいかに伝染性のあるひどい妄想か、を説明します。ベル・カーブが使用できるガウス型分布は限られた場合にのみ有効でり、所得や資産、本の売上などの集計量を扱うことはできません。また、ベル・カーブにもとづいた不確実性の測度は、急なジャンプや断絶が起こる可能性とその影響を単純に無視してしまいます。その際には外れ値を無視してしまうため、ブラック・スワンを見落とします。したがい、果ての国ではベル・カーブは使えないわけです。

第16章では、マンデルブロ集合で有名なマンデルブロの紹介をします。そして、彼のフラクタル理論によって、ガウス分布とは異なるマンデルブロ分布を説明します。またフラクタル理論によって、ブラック・スワンの現れる可能性がいくらか見えたり、現れればどうなるか意識もできることを説明します。しかし、これはあくまで灰色の白鳥であり、ブラック・スワンとは異なります。

第17章では、経済学の世界でいかにガウスの流儀が好まれているか、またノーベル経済学賞が、エセ科学とインチキ数学で厳密さを持ち込めた人に与える癖があるかを説明します。そして、1997年にノーベル賞を受賞したマイロン・ショールズとロバート・C・マートンのLTCM(ロング・ターム・キャピタル・マネジメント)がいかにしてブラック・スワンに飲み込まれたかを論じます。彼らのモデルは大きな外れ値が出る可能性を無視していたのです。

第18章では、金融や経済の人はみなガウス流にどっぷりつかっていますが、哲学者はどうかという点を論じます。哲学者は私たちが当たり前だと思うことを疑ってかかる仕事です。それなのに、彼らはほかの領域(たとえば株式市場、年金運用者の能力)にはまったく疑いをもちません。また数学に関しても、数学が現実の客観的な構造に対応していることもありますが、認識論的に言って、私たちは馬車を馬の前につなぐような本末転倒をやらかしている危険があることを論じます。

第四部

第19章(最終章)では、いかにブラック・スワンに立ち向かうのか、タレブ自身の考えが述べられます。彼は、ほかの人たちが信じることを疑い、ほかの人たちが懐疑的な時は信じます。また失敗も致命的な大きな失敗は心配するが、小さい失敗は心配しません。皆が騒ぐリスクは心配しないけれども、私たちの意識の外のリスクを心配します。友人からの「電車なんかで走るなよ」というアドバイスを紹介し、自分の時間や予定、そして自分の人生を自分で思いのままにする大事さを説きます。最後に私たちが、たいへん小さい幸運な確率の結果いま生きていること、すなわち私たち自身が「ブラック・スワン」である、として締めくくっています。