現代人カフカ(カフカ『変身』を読んで)
僕がカフカの『変身』最初に読んだのは大学生の頃で、その時の印象は、人間が急に虫になるなんてとても奇妙な話だし、なんでこんなこと思いつくんだろうな、とか思っていた。
ただ社会人になり、30歳を過ぎ、それなりに社会経験を積んだ今読んでみると、また違った印象を受ける。
まず虫に変身する前の主人公グレーゴル・ザムザの生活は、現代の一般的な平均男性の生活とそう変わらないのであり、社会人になった今の方が共感できる。
外交販売員として働く彼は、いわゆる社畜であり、日々ノルマと上司のパワハラに追われている。
また独身であるが、年老いて働けない父母と年端もいかない妹があり、家計は彼が支えている。
そんな彼の夢は、お金を貯めて妹を音楽学校に入れてやることである。
こういう背景に着目すると、カフカの『変身』は、日々ストレス社会に生きる現代人こそ、共感できる作品なのかもしれない。
さて、ただそんなごく慎ましい一般男性が、ある朝目覚めると、虫になっていたとしたら、、、カフカの『変身』は実際に自分が虫になっていたら、と想像しながら読んでみると面白い。
皆さんは変身した直後に、何を思うだろうか。。
このあたりの変身した後の主人公グレーゴルの、ある種他人事のような冷静さには、たしかに一種の異常さを感じる。
グレーゴルは虫になったことに気づいた数分後には、またいつものように「なんて辛気臭い仕事を選んでしまったのか」とか仕事のことを考えているが、このあたりの冷静すぎる描写は普通でない感じがする。。
思うに、グレーゴルは元々本質的に自分さえも、「物」のような目線で扱う人物であり、それゆえ、外面が人間であろうが、虫であろうが、あまり重要ではないのだろうか。
また『変身』は終始虫側になったグレーゴル側の視点、つまり変身した側の視点から描かれているのも興味深い。
虫になったグレーゴルの視点から描かれる家族への思いなどは、読んでいて少々胸が痛い部分もある。。
また当然、家族側の視点に立ってみても非常に興味深い。
もし自分の息子が、あるいは兄が、ある日虫になっていたとしたら、いつまでそれを息子、兄と呼べるだろうか。。
そのあたりの家族の心境の変化などが、物語の帰結へと繋がっていく。
人間とそれ以外のもの、この作品で言えば虫であるが、その境界を分けているものは本質的には何なのであろうか。。?
実は人間とは、極めて不安定なものではないだろうか。。?
カフカの『変身』を読んでいると、そのような「懐疑心」に目覚めさせられるのである。
よく言われているように、カフカは普段はごく平均的な「現代人」として生きていた。
ただその日常の中にいて、その日常を虫になった視点から描いてみようというカフカの感性には、やはり一種の狂気を感じる。
そういう意味では、カフカは多くの現代人と同じ世界を生きながらも、多くの現代人とは全く違う感性ゆえに、違う世界を生きていたのだろうと思う。
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