賢者より道化でありたい(山口昌男『道化的世界』を読んで)
不真面目より真面目、混沌より論理、非理性より理性、偶然より必然、放蕩より禁欲、無意識より意識、不合理より合理、愚者より賢者、停滞より進歩、無価値より価値、非効率より効率、矛盾より一貫、無目的より目的、無意味より意味。
上記に思いつく限り記した対概念について、今日の僕たちの価値観から考えると、後者に挙げたものより前者の方が一般的にネガティブなもの、と捉えられることが多いと思う。
現代社会の勝者になるには、論理や理性的判断に優れ、偶然ではなく必然よる達成を目指し、真面目に己を律し、賢者であり、常に向上心をもって目的に向かい、社会に有用な意味や価値を提供する人物でなければならない。
これは事実であろうし、現代教育もこのような人物を志すべきと説いている。
しかし、このような真人間的な価値観は、人間という存在の全容をとらえているのだろうか?
むしろ、人間存在に関して何か大きな見落としを招いていないだろうか?
現在、軽視されているような価値に目を向けることによって、人間の別の側面、可能性に気付けないだろうか?
このような疑問を少しでも感じた人に読んでほしい作品が、山口昌男の「道化」に関する作品群である。
山口昌男はアジアやアフリカで実際にフィールドワークを行い、道化的文化やトリックスターをテーマとした著作を数多く発表した文化人類学者である。著者の多くの作品の中で、今回は『道化的世界』に記された道化論をベースに論じたいと思う。
本書は今日、その価値を落としている「道化的知性」といったあり方が、かつてはアフリカ、ユダヤ、キリスト教などのさまざま文化圏において重要な位置を占めてきたことを解き明かす。
道化というとサーカスのピエロのようなものをイメージするかもしれないが、日常性から逸脱することによって、さまざまな価値観やヒエラルキーを相対化し、人々に「笑い」を提供するような存在や知的あり方全般を、道化と考えていいだろう。
本書には道化の特徴を下記のように記している。
道化にはこのような多様で多層的な側面があるが、先に挙げた対概念のうち、一般に今日、価値が低いとみなされている要素の体現者であり、それを体現することによって、そもそもそのような「二項対立的分類そのものを排除」する。
現実には「賢者と愚者」や「勝者と敗者」がいるのではなく、人間存在とは本来「賢者であり愚者」、「勝者であり敗者」という矛盾的な存在であることを、道化は身をもって体現する。
このような道化的形象は、かつては様々な説話や芸術作品の中に姿を表し、人々の想像力に大きなインスピレーションを与えていた。
あるいは、一部の芸術家はそれを生き方として遂行しようとしたが、その生き方は客観的に見れば幸福とはいえなかったであろう。
私たち自身が道化師として、道化的に生きることは正直難しい。
特に今日のようなAかBか、のような対立的構造を強く要求する社会においては、道化的生き方を選択することは、社会に居場所が失くすことであり、すなわち死を意味する。
ただし、このような時代だからこそ、各々が道化的な遊戯的精神と想像力を幾分でも心に持っておくことが、自分の心を守ることにつながると思う。
自分という存在は、社会が定める何らかの価値観に分類され、カテゴライズできるようなものでは本来ない。
そのような社会的カテゴライズや価値観に押しつぶされそうになりそうな時は、道化的な嘲笑の精神で社会、のみならず、自分自身をも「笑い飛ばす」ことができれば、より自由な心をもって、世の中を見ることができるようになるかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?