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日本人のこころ「あはれ」

「あはれ」という言葉は今日、日常的に使うことはあまりないにせよ、僕たち日本人は、その「あはれ」という言葉に含まれた「情感」といったものを、何となく感じ取り、共有することができる。
僕自身も「あはれ」という言葉に含まれた哀感・情感に深く共感するところがあり、大まかな理解になってしまうが、ここに日本人のこころ「あはれ」について調べたことを記したいと思う。
(内容としては、『日本美を哲学する』著 田中久文、を参考にさせていただきました)

まず「あはれ」という言葉は、古典的用法の中でも「喜怒哀楽」すべてを表現できる幅広い意味で使用されてきた。
ただし、「あはれ」が意味しないものとしては、「嫌悪」や「軽蔑」、あるいは、その対極の「愛欲」や「執着」などがあり、総じて言えば、「主観性の著しい強い感情表現」の意味は持ち合わせていない。
このようなことから、日本で初めて本格的な「あはれ」論を展開した江戸時代の国学者本居宣長は、「あはれ」は「欲」ではなく「情」であると言う。

この感覚は、僕たちが日常的に「あはれ」を感ずる場面と照らし合わせても納得できる。
「あはれ」を感ずる時、たしかに心は動かされているので完全に冷め切った態度ではないのだが、かといって、そこに強い感情はなく、むしろ何となく「悟った」様な清々しい感情に包まれている。
このようにあはれが、ある心的態度を表現するのは事実だが、その態度というものは「主観的な自我の昂揚」ではなく、むしろ「客観的な静観的態度」であると言える。

宣長は、このようなあはれの中にある「客観的態度」、また「もののあはれ」という言葉に着目し、「あはれ」は主観的な感情ではなく、「もの」に内在するものであると考えた。
人間は「もの」の本質を知ることによって、「あはれ」という感情
をもつというのだ。

この場合の「もの」というのは「万物」を意味し、本質という言葉は哲学的には議論が難しいのだが、何らかの「概念的な理解」というよりは、「直観的な理解」と考えるべきであろう。
人は「あはれ」という感情を感ずる時、普段の日常よりも一層深いところで、世界に触れた感覚を持つことになる。
このようにいうと、何となく神秘主義的な体験になってしまうが、僕たちがある風景を見て、それに美しさと同時に悲しさを感ずるのは、やはり幾分か神秘的な要素はあるようにも思う。

では、「もの」の「本質」とは何であろうか?
「あはれ」はさまざまな場面で使われることは先に述べたが、「あはれ」という感覚は「悲しさ」と「美」が相互作用的に関係性を持ったときに生まれるという。
「悲しい」だけでも、「美しい」だけでも足りず、「悲しさ」と「美」が同時に立ち現れる必要があるのだ。

「悲しい」という感情はそれ自体では、人間の「有限性」に直面した時に生ずる。
それは生命の有限性でもあるし、全てが完璧に充たされることがない、選択と非選択がある、この世のことわりについての認識である。
他方「美」は、このような悲哀を受け止めながらも、何らかの神的なもの、別世界へ思いを馳せ続ける人間の「無限性への憧れ」によって生ずる感情であるという。

この世界の現実を直視するという点では、おそらく「悲しい」という感情が根本的であるのだろう。
人間は「有限」な存在である、というと大袈裟だが、普段の日常を通しても、僕たちは自分の力ではどうにもならない自体に遭遇したり、何かを選ぶことによって、別の選択の機会を失ってはいる。無論、それが良いとか悪いの話ではなく、それが人間なのである。

ただし、人間には思想やイマジネーションがあり、時にそれは人間の現実の「有限性」を超え出ようとする。そのようなものを目にしたときに僕たちはそれを「美しい」と感じるのであり、それは瞬間的なもので、いわば一種の「虚構」ではあるのだが、人間はそのようなものを見て、感ずることができる。

このような人間の「有限性」と「無限性」を同時に捉えるような心的あり方が「あはれ」であり、このような感性は西洋・欧米的な思想圏にはあまりないように思う。
おそらく、西洋思想には「悲しい」という、一見ニヒリスティックな態度を、反転してポジティブなものとして捉える思想は根付かなかった。

現在では、僕も含めて多くの日本人が、日本人として日本で生活しながらも、たぶんに西洋・欧米的な価値観の中で生きているが、時に「あはれ」のような日本固有のこころのあり方に目を向けることも、大切であるように思う。








あはれは欲ではなく情。
客観的普遍的性質を帯びた愛

あはれ、ものの本質を知る、単純な心の中の問題ではないことになる

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