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認識論と相対主義

渡辺慧 著『知るということ――認識学序説』(ちくま学芸文庫)を読んだ。
伝統的な哲学の議論において、認識の問題は「認識論」と表記される。だが本書の表題にあるのは「認識学」だ。これは従来の認識論とは区別される、形而上学的な表現を排した数学的表現に基づく新しい認識の学を樹立しようという意図によるものだ。
白状すれば、本書を読むために必要な知識を私はもっていなかった。不勉強を晒すことになるが、私の理解を記録しようと思う。

難しい本を読む時は何か取っ掛かりを見つけるのがよい。今回は相対主義という言葉から考えていこう。
本書の補稿で村上陽一郎も指摘していることだが(211頁)、相対主義というのは哲学者には評判が悪い。通俗的な言い方をすれば、十人十色とか、人それぞれというような考え方を哲学者は怠惰で、悪とすらみなす傾向にある。相対主義の端緒をプロタゴラスに見るとすれば、哲学者の相対主義嫌いは古代より続く哲学史上の伝統であるように思える。
だが科学者の場合は事情が違うらしい。相対主義はアインシュタインの相対性理論以来、科学の世界では一種の鍵概念として受容されている。本書においても、その主張は「認識学的相対性」であるといわれるように(4頁)、相対主義は忌避すべき悪徳ではなく認識学成立のための積極的な立場として採用されている。
では、認識学的相対性とはいかなるものなのか。次に考えるべきは、「相対論的立場」についてである。

認識学の使命とは哲学における認識論的諸問題を統一することにある。諸問題というのはたとえば心身の二元論や、認識の確実性を巡る問いと考えるとよい。これらを統一する立場として本書が提唱するのが相対論的立場というものである。
相対論的立場においては、以下の三つの観点が重要とされる(4-5頁, 179-180頁)。

①一つの対象に対する視点・局面(aspect)は二つ以上存在し、一つの視点に立つ限りにおいてその議論は首尾一貫した(consistent)ものとなる。
②それら二つ以上の局面のどれか一つが正しいのではなく、それぞれが許容されるべきであるが、異なる局面を一つの文章で混用すると矛盾が生じる。
③諸局面のどれか一つを絶対化することは対象への理論化としては不十分であり、諸局面を橋渡しする変換規則の定式化こそが必要である。

最初読んだとき、カントのアンチノミー論みたいな感じなのかな、と思った。あるいはパースペクティビズム?渡辺自身はヘーゲルの名を挙げながら、弁証法を認識学に取り入れるべき問題と考えているようだ(183-184頁)。

そうなると異なるアスペクトの橋渡しをする変換規則、およびその定式化とは具体的にはどのようなものなのか。以下に挙げられるものが変換規則の具体例として考えられている。

・アインシュタインの相対性理論については「ローレンツ変換」
・ボーアの相補性については「ヒルベルト空間のユニタリー変換」
・論理言語相対性については「束論的原子順列変換」
・「もの」と「こと」とについては「シュミット変換」

……さて、どうしたものか。検証、証明は本書の中で行われているのだが、私はこれを説明できない。情けない話だが、「関心のある方はご自身で読んで頂いて」という他はない。

だが今日の話はこれでお終いというのも寂しい。代わりといっては何だが、わからないなりに読んでいて面白いなと思った箇所の話をしようと思う。
渡辺は時間論の研究を多く遺しているのだが、これは物理学的関心と哲学的関心との結実によるものだ。この関連でベルクソンが出てきて、「おっ、久しぶり!」という気分になった。以下、本書の6章5節「分散性と集積性」の議論を紹介する。

熱力学第二法則というものがある。これは物理的な系においては時間と共にエントロピーが増大するという法則で、「高い山があれば, 高い山が低くなって谷が埋まる. エネルギーが1つのところにあると, それが全体に広がってしまう, そういう平均化の傾向」と説明される。
だがこうした「平均化」とは逆の現象が生物において起きる。渡辺は『創造的進化』から葉緑素の光合成の例を挙げ、「生命においてはエネルギーが集まってくる」ことがベルクソンの主張であるとする。換言すれば、生命においてはエントロピーが減少するということである。
ベルクソンと同様の学説として気象学者の藤原咲平の研究も紹介されている。藤原は生をエネルギーの集積、死をエネルギーの平均化と捉えている。また、台風や渦巻のような現象においては流体の粘性によってエネルギーの集積が生じる。そこから、死んだもの(物質性、非生命?)にもエネルギーの集積が起きると考えていたようだ。
最後に「逆立ちコマ」の例が紹介される。逆立ちコマを紙の上で回転させると最初は複雑な運動を見せるが、コマは次第にそのエネルギーを集積させ、ひっくり返って軸を中心に回転するようになる。この現象はコマと紙との抵抗がないと起きないらしい。これは軸を中心とした回転という形でエントロピーが減少しているように見える一方で、紙の上の熱運動という形でエントロピーが増大していることを意味する。
これらのことから理解されるのは、エントロピーはただ一方的に減少するということはなく、たとえば抵抗や粘性によって熱が生み出され、どこかでエントロピーは増大しているということである(ゼロサム?)。エントロピーの増減に関する問いは、変数の取り方次第で解答が変わるのであり、こうした考えは先に述べた相対論的立場を端的に表しているように思えた。

……こんなところで勘弁してもらおうか。学習には順序があり、今回は身の丈に合っていない本を読んだように思う。それでもたまに難しい本を読んで苦悶するのも一つの読書体験である。
渡辺の研究で本書『知るということ――認識学序説』よりも昔のものとして、たとえば『生命と自由』、『認識とパタン』という作品が岩波新書から出ているようだ。岩波新書なら読みやすいかな?などと希望が持てないくらいに今回は深手を負ったが、次に取り組むとしたらここら辺からかな、と記憶しておこう。

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