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哲学史が楽しい

哲学史の勉強を久々にしていたら楽しい気分になったので、何か話そうと思う。今回読んだのは伊藤邦武著『物語 哲学の歴史』(中公新書)。だいたい300頁くらいの通史で、第一章で古代中国と古代インドに僅かに触れるが基本的には西洋哲学史の話である。

新書として初学者への配慮もされている本書だが、説明しようと思えばいくらでも長く書けるのが哲学史の本である。それを一冊にまとめようとすれば当然議論は圧縮されたものになり、内容的にも難しくなる。用語レベルの話でいえば、本書の場合「アプリオリ」は断りなく説明に用いられるが、「表象」には解説が入るくらいの難易度だ。いや、そのくらいなら親切な本だな……とは思うが、それでも全くの初学者では息切れするかもしれない。逆に、一冊くらい哲学史の本を読んだ経験があればついていける内容だとも思う。

さて、哲学史の本は共著で書かれる場合も多いが、本書は伊藤氏一人によって書かれている。共著には共著のよさがあるが、哲学史は単著の方が私は好きだ。というのも一人の人間によって書かれた文章の方がその関心や問題意識が見えやすく、著者の視点を共有することで学習もしやすくなるからだ。たとえば本書では人間精神への問い、あるいは心の存在論という観点から哲学史を物語ることが企図されており、更にその根底には宇宙論的な視座が据えられているように思う。

だが執筆者が一人の場合、内容に偏りが生じやすいという難点もある。紙幅の限界といってしまえばそれまでだが、本書における中世の記述は味気ない。逆に二十世紀の哲学を語る第三章は濃厚で、特に第一節の「論理学の革命」は本書で最も面白く読めた。以前に学んだ時は無感動であった分野なのだが、今回本書を読んで「このパース、味がする!?」と初めて感じた。

漠然とした話になるが、哲学史を書く行為の意味について考えてしまう。それは「哲学とは何か」という問いに対する一つの回答、執筆者における哲学への態度表明なのだと思う。歴史に対する一つの視座とは、ともすれば一つの偏見である。だがむしろ、そうした不公平さこそが著者の姿を、いかなる哲学者であるのかを開示する。あるいは私もこの雑感の中に一種の立場を暴露してしまったのかもしれない。哲学史を学ぶ楽しさとは、こうしたところにあると思う。

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