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科学エッセイ分冊 考古学編

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考古学関連の記事をまとめました。
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#歴史

空想考古学・邪馬台国はココだ!#8 倭国大乱の実態

 倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱のことです。この争乱のことは、『後漢書』『三国志』『梁書』などの中国の複数の史書(正史)に記述されています。その内容は、およそこんな感じです。  倭国はもともと男子を王としていたが、70〜80年を経て、倭国内で国王の座を争う大乱が発生した。その争乱は暦年(約10年?)続いたのち、邪馬台国が勝利し、邪馬台国の一女子を王とすることで国中がまとまった。その女王の名を卑弥呼という。  邪馬台国がどこにあるにしろ、九

空想考古学・邪馬台国はココだ!#6 方位と距離

 邪馬台国の位置を論じる場合に問題になるのが、方位と距離です。九州説では方位は問題ありませんが、距離が合わないために「距離を恣意的に胡麻化して」います。また畿内説では、距離は辻褄が合いますが、方位が合わないので「方位を恣意的に胡麻化して」います。どちらの説も、方位と距離に問題があり、魏志倭人伝の記述と合致させるのは不可能です。  しかし、私が考える邪馬台国・奄美大島説では、距離も方位もバッチリ合致します。前回の記事で、古代中国から見て海外にある邪馬台国への出発地は「釜山付近

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 倭人とアイヌ

 魏志倭人伝の倭国には、南方を思わせる記述が多く出てきます。例えば、『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)です。縄文時代の途中から、平均気温が上昇しましたが、それにしてもビニールハウスの無い時代に、北部九州や畿内では年中生野菜は食べられなかったはずです。  また倭国の(南方系の)風習で、刺青の記述も数ヶ所出てきます。『男子無大小、皆黥面文身』(男子は身分の区別なく、みな顔や体に入墨をする)がそれです。倭人の男性は、顔や体

空想考古学・邪馬台国はココだ!#4 魏志倭人伝のファンタジーな国々

 今回はちょっと長くなりました。空想考古学では、邪馬台国を奄美大島に想定しています。魏志倭人伝の女王国(邪馬台国)の周りには、まだ解釈が定まっていない不思議な国がいくつか記述されています。しかし、奄美大島を邪馬台国と考えると、色々と辻褄が合うのです。魏志倭人伝の読み下し文になりますが、以下が邪馬台国周辺の謎の国々の箇所です。 『女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國、黒齒國あり、またその東南に

邪馬台国はどこ? #1 邪馬台国・埃及説

 1910(明治43)、ある奇妙な論文が読売新聞に掲載されました。論文題名は『東西両大学及び修史局の考証を駁す─倭女王卑弥呼地理に就いて』でした。著者は、当時、詩人バイロンの紹介や『プラトン全集』の翻訳などで知られていた、哲学者・翻訳家の木村鷹太郎です。しかし、その論文内容は、邪馬台国研究史上、最も奇妙な学説”邪馬台国=埃及(エジプト)説”でした。  現在でも、邪馬台国論争の決着はついていませんが、主なものとしては、京都帝国大学の内藤虎次郎(内藤湖南)教授が『卑弥呼考』のな

大発見!? 巨大な前方後円墳!!

 グーグルマップを眺めていたら、偶然、前方後円墳に見える地形を発見しました。場所は福岡県朝倉市です。前方後円墳に見えるこの山は、前方部が北側、後円部が南側を向いています。また、後円部の中心には秋月小学校の校舎とグラウンドがすっぽりと収まっています。この山地形が前方後円墳だと仮定すると、墳丘長は約750 mにもなります。これが本当に古墳なら、歴史的な大発見です。  日本最大の前方後円墳は、仁徳天皇陵と呼ばれている大山古墳(だいせんこふん)です。大阪府堺市堺区大仙町にあるこの古