#73 映画『怪物』見ました

見てない人は映画を見てください

以上














久しぶりに本気の映画を見た。ドーンとぶつけられた。一部の人の間で語り継がれる映画も名作だけど、万人に受ける映画も名作だと改めて思った。映画を見る目的がなにかって聞かれたら、映画を通して成長することだと思う。月並みな言葉で言えば。知らなかったものを知る。自分になかった考えを取り入れる。自分が登場人物の立場だったらどうするか考えて、想像力をつける。映画はそれを作る人が、人生で蓄積してきたものをドバっと社会に放出するためにあるもの。だから、一本映画を見れば必ず何か生きるためのヒントみたいなものはつかめる。

『怪物』はとにかくストーリーテリングがすごかった。1つの事件を3つの視点から映し、その視点によって怪物の正体が変わっていった。しかし映画の中で私たちが見ることができたのはたった3つの視点だけだ。この映画には他にもたくさんの登場人物が出ている。映画のなかで最後までいじめっ子として出ていたクラスメイトの子供たちの視点も存在する。その視点を通してみれば、また事実は変わるかもしれない。

高3の時に英語の授業で出されたなぞなぞ
お父さんと息子が交通事故で病院に運ばれました。そして病院の先生が、こう言いました。 「この子は私の息子です。」と。何故でしょうか?


これの答えは医者が母親だったから。まぁ連れ子だったていうのも答えになると思うけど。とにかく医者=男という先入観は無意識レベルで持ってしまっていると思う。そういった無意識の積み重ねが世間を作り、常識をつくる。その常識から外れることは、時として悪と見做される。

「男らしく」「男なら」「結婚して家庭をもって」劇中、これらのセリフは悪意を持って吐かれたものではない。しかし、湊とヨリはこれらの言葉に抑圧され傷つけられた。誰が怪物なのかを探すよりも自分の中に巣くう怪物と対峙するのが先かもしれない。


小学校のリアリティがすごかった。ほりせんせいのことをほりせんっていう感じとか、テレビの真似をしていじめっ子が「どうぞやっちゃってください」って言う感じとか。めちゃくちゃこだわって作られてんなぁって。

高畑充希こわかったね。「男の大丈夫と女のまた今度は信用しちゃいけない」とほりに教えて、自分が出ていくときに「また今度」と言った。こういう脚本は観客として、単純に面白いって思えるポイントになるからいいよね。ちょっとわざとらしさがあったけど。

校長が音楽室で言った

「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。 しょうもない、しょうもない。 誰でも手に入るものを幸せって言うの。

この言葉。この言葉自体は何もおかしなところはないと思う。けれど、その前に湊が校長に、男の子なのに男の子のことが好きで、だから僕は幸せになれないと語っている。それに対してのこの返答だから少しややこしい。

世間の「誰でも手に入る幸せ」は、物語冒頭、車の中で母が湊に語ったように「どこにでもある普通の家庭の幸せ」のことを言うだろう。湊は同性愛者であるがゆえに、その幸せを手に入れることはできない。現時点では。

湊の視点からすれば、「誰か」は異性愛者のことだろう。彼らにしか手に入らないものは幸せとは言わない。「誰でも」(同性愛者である自分をも含んだ全員)が手に入れることのできるものを幸せという。この言葉で自分にも手に入れることのできる幸せが存在するということに気が付いたということだろうか。

まとめると、「世間一般」の考えたかに当てはめて考えれば「誰かにしか手に入らないもの」=高級車、高級マンション、美人、高学歴と言ったもので、「誰でも手に入るもの」=愛する人と結婚して家庭を持つことになるだろう。

これを湊の視点に当てはめて考えると、「誰かにしか手に入らないもの」=愛する人と結婚して家庭を持つこと、「誰でも手に入るもの」=好きな人を好きだと思えて、愛し合えること、になるのではないだろうか。

これもまた、視点によって意味が変わるものなのだろうなと思った。


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