2005.5.5 「 瀞けて候 」

ちとばかり、薄気味の悪い話だ。

まるで暗闇の滑り台から、光の中へ滑り出たような気分だった。真夜中のバイトを、ぱっくりと辞めた。辞めたとたん、当たり前のように、日の光が自分の生活に戻って来たのである。人間の性とは恐ろしい。あれほど昼夜、サボらずひどい睡眠時間で稼動し続けた私が、「真夜中の拘束」と縁が切れた瞬間、いつぞやの自分に逆戻りである。午前4時に目覚ましをかけたのにも関わらず、2度寝ならぬ10度寝以上を繰り返し、幻想にかき混ぜた毛布を抱きしめて目を開ければ怠惰な日の光に満ちた午前10時過ぎだ。確か去年の今頃、「2度寝マイラヴ!」と叫んでひたすらに甘美な布団の裂け目に生じるミステリーゾーンに身を投じていたのを思い出す。しかしどうなんだ。時間の拘束がなくなったとたん、何もかももとの木阿弥とはどういうことなんだ。俺には何か憑いている。背中の筋肉一帯に、幽玄の世界が細かく根を張り、現世を生きる私の脳髄にまでその触手を食い込ませているように思う。そして俺は病んだように、眠りの幻想に落ち続けるのだ、何か魂の力を吸い取られながら。結局真昼の仕事行きとなった。電車はゴールデンの行楽の人ごみで老若男女からふるに囀っている。揺られ、肘鉄の隙間に顔をうずめ、やがて放たれたのは日暮里駅である。谷中を歩き始める。怠惰が丹田に貯まり、むず痒さを風が洗っていく。夕焼けだんだんの前に、藤がだらりと垂れ下がっている。ゆけば藤、だらりとゆけば、藤だらり。我が俳句は、三つ子の魂100までの私の無念の性能を、喝破していた。咲く藤を見るとき、そこにきりりとした私は存在しない。その季節、この世の森羅万象の圧力のおかげでかろうじて人間の形に肉体をとどめている完全崩壊した「人間性」が、ただ届いたFAXの「明日の現場」の住所だけを頼りに、それだけを存在理由にこの世の白昼にぶら下がっているのである。通りすがる寺の門は開け放たれており、赤い椿?が寺の光の満ちただが影めいて見える庭先に一際命めいて見えた。ぐらり、と世界は傾いた。谷中銀座が、起き上がるように視界を覆っていく。夕焼けだんだんを真昼に降りるのだ。解けていた。分解が始まっていた。私は人間ではなく、5月の風であった。太古、私は風であった。何の因果か生命を与えられ、鼓動は始まり、肉塊はその精神と結びつき、成長し、縁と運にまみれ、いつしか定めを受け、それに甘んじ、そうこうしているうちに、風なる精神は一個の人間として確定し、それから逃れられず、そうであることの、つまりは一人の人間の人生というやつを生きることの虜となってしまい、その無知の中におぼれてその無知に適う知恵を求め続ける浅はかな存在に落ちぶれてしまったのだ。だが5月の風である。これが肉体の原子を擦り抜けて我が精神に進入し、肉体と精神を繋ぐ鎖めいたものを断ち切り、初めて精神は開放され、風の中に、精神は自分が風だったと気付くのである。おお、私は太古、風であった。すべての精神はみな、太古、風であった。そしてやがて鈍い痛みが、痛痒い恍惚が、つまりは肉として今日まで選んで来た野心が願望が風なる心を手放さんとひたすらにちくちくむずむずといたずらをするのである、はらわたの辺りで。その葛藤に、その自分の中のざわめきに、撃たれながら、それでも現世を歩くのだ。もちろん、私は魂でなく、人だから。不忍通りを曲がると、現場はすぐそこであり、そして現場の手前では、偶然にもつつじ祭りが開かれているのだった。根津神社。行楽の人。屋台の顔。現場に入り込んだ。仕事を終わらせた。帰る体は、社の中に引っ張り込まれた。すでに分解していた私は、やがて漏れ出した。熔けて、漏れ出した。木々が生み出す影の中に闇が浸入り始めていた。瞳に覚醒が始まっていた。神話の記憶が、起き上がってくる。太古の風の記憶からものすごい時間を過ぎ、神々の時代、あの頃の記憶が細胞に舞い戻ってくる。私は確かに、名のある神であった。神たちとともに生きた。その記憶。解けて風になった精神は夕闇に組み立てられ、たたらばのはるか底であつく滾る溶けた鉄となり、それは全く暮れ行く社の呼吸と和合して、ただただ平和であり、そしてその平和は限りなく厳かなのであった。躑躅の赤が闇を吸い込んで淫猥に人を見下げている。木々の肉体に会話が浮かび始める。露店は常人には見えぬものすごい数の物の怪を纏いおぼろなり、人の顔ばかりが、人の顔ばかりが、暮れて行くよきいちじつに飄々としている。私の中の狂気の方位磁石は、びたりと一方向を向いて動かない。ものすごい力でひとつを指す。歩いた。胸広げて、歩いた。この幻の夕闇に、目に見えぬ刀の一閃があったとして、私は首を失ってもだらりとどこまでも谷中の街角を歩いて行ったに違いない。あなたは霊を信じるか。前世を?神神しい力を持って、谷中という町は私の精神に触れてくる。ここで暮らした記憶はないのに、この尋常ではない郷愁はなんだ。跪くようなよろこびはなんだ。神を感じるのだ。他に言いようがない、神を感じる。偉大なる力が、この町を染め抜いている。ブロック塀、トタン屋根、ガラス戸の向こうの店の中の灯り、なにもかも、なにもかもに、神は分散し、宿り、町のすべてが、神のしるしで満ちているような。本当に、妖気を含んでいる町である。ただ、人間だけが住んでいる町ではない。黄泉が草葉の陰から漏れてしまっている。夕焼けの金色にあの世が混じっている。廃人のようになって歩いた。谷中を迷子になった。知ったことではなかった。どうでもいいのだった。この朦朧とした意識のままに、私のつま先はアスファルトに沈む。出す右足、のつま先も沈む。凄まじい快感が下腹部から襲ってくる。欅の甘い囁きが聞こえてくる。ずぶずぶといく。ずぶずぶと行き続ける。膝がうずまり、腰がうずまり、人知れぬ、人のいない谷中のどこか奥の曲がり角で、私の体はアスファルトに沈んでいく。恍惚と暮れる町の光と影を見ている。胸まで沈む。鼻まで沈む。悔いも悔恨も恐怖もない。耳も沈む。五感を放棄する。頭まで沈む。沈み切る。誰もいない。誰もいない谷中の路地裏に、日が暮れる。猫が一匹、行く。闇。私が谷中になった以外、何も変わらない世の中。どこかの人のうちの庭先に、今年も鉄線が咲くでしょう。この町と私の魂との関係。いつか解き明かさなきゃならないだろう。


おわり


※当noteは現在、自分の過去のHPなどに載せた文章をまとめる作業用の場所になっていますよろしく(笑)

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