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謝罪をさせてくれ(高校の部活)

どうも。もうここでどうボケたら良いか分からなくなっている系大学生です。

今回は、俺に謝らせて欲しいことがある。

高校時代、俺と同じ部活だったそこのお前にだ。

そうお前だ。股間をいじってるそこの。升をかく前に、耳を貸してくれないか。


ありがとう。



目次


バレー部入部〜2年まで


2年〜引退


すまなかった。


入部〜2年まで

俺は高校入学当初、バドミントンを新しく始めるか、中学時代に続きバレーを続けるかで迷っていた。俺と同じ高校にいった中学の同期が1人いたが、そいつはハンドボールに行ってしまった。ハンドボールも一瞬考えたが、ハンドボール部は経験者が多く、試合に出るのはほぼ不可能だと思ったためすぐに候補から外した。

放課後の部活見学、俺は体育館の入口からバドミントン部とバレー部の様子を眺めていた。その時、ある女の人に話しかけられた。服装は高校指定のジャージではなく部活のジャージ、この部活見学の時間帯に制服を着ていない様子を見ると、恐らく2年生か3年生。ジャージの中にはパーカーを着込んでいるのか、黒いジャージからは想像がつかないピンクのフードが出ている。さすがにジャージに元から着いているフードでは無い。ジャージの中にパーカーを着込んでいるさまは、下らないルールでギチギチに縛られた義務教育を卒業したばかりの人間からしたら、自由の象徴だった。高校生になったのだと改めて実感した。
その女の人はバレー部のマネージャーだった。話を聞いていると、どうやら俺の学年で男子のバレー経験者は俺1人だけらしい。また、中学時代のバレー部の人数が4人という苦痛を経験していた俺は、入部希望の1年生が5,6人いるという話を聞いて気持ちがバレー部に傾いた。

その傾いた気持ちのまま、俺はバレー部に体験入部し、同期も皆面白そうな奴で、バド部に行くことも無くそのままバレー部に入部した。

一年生の間は結構楽しかった。中学の時みたいに厳しい先生もおらず、変なプレッシャーを抱えることなくバレーに取り組めた。また、同期は俺以外みんな未経験だったので、心の中で「無双してやるぜェッ!ヒャッハーッ!」と調子にのっていた。先輩は、3年生は1人もおらず、2年生が2人いた。2年生は2人ともバレー経験者だった。背の高い魚顔と普通のイケメン(キャプテン)だ。

1年生の間は、キャプテンの先輩が練習メニューを考えてチームを引っ張ってくれてたので、俺たちはただその先輩にただついて行けばよかった。だからこそ、俺は何も考えていなかった。ただ先輩のメニューをこなしていけば良いと思っていた。実際、ただ練習に行っているだけだった。部活以外で、自分でボールを触ったりトレーニングをするようなことはしていなかった。それに理由があるとすれば、「やれ」と言われなかったからだろう。

俺は中学も高校もロボットだった。「やれ」と言われたこと以外出来なかった。中学では、顧問の先生に「俺に言われたことだけをやれ」と言われてきた。元々俺は、他の生徒に比べても従順に大人の言うことに従う、いわゆる真面目タイプの人間だった。だからこそ、余計に自分のロボット性が強くなっていった。自分の思考なるものは、完全に放棄していた。真面目と言えば聞こえは良いが、逆に言ってしまえば、自分の考えや判断に自信がもてなかったのだ。だからこそ、自分より優れている人や責任のある人の言うことに何も考えず従うだけだった。いや、もしかしたら自分で考える、判断するという行為が面倒くさかったのかもしれない。こういった傾向は、大学生になってからはマシになったと思うが。とにかく、この性格が後にチームを破滅に導く一因となった。




2年〜引退

2年になった時にバレー部の顧問が変わった。その先生はバレー経験者であったが、バレーの技術は高いとは言えなかった。キャプテンの先輩の方がよっぽど上手かった。それでも、「指導者」がいることに安堵していた。最初のプレーを見た時に、あれ?そんなに上手くないなと思いはしたが、まぁバレーは久しぶりなのかなと思うことにした。あの手この手で新しい顧問の先生を指導者だと思い込もうとした。そうでもしなければ、先輩達が引退した後のことを考えられなかった。俺は、先輩の引退を控えても、これからのチームを引っ張ってくれる誰かを求めていた。いや、チームではない、俺が誰かに引っ張ってもらいたかったのだろう。完全に思考停止状態だった。

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先輩達が引退した後、俺は同期の中で唯一経験者だったのもあり、キャプテンになった。とはいえ、心の内では別の同期をキャプテンにして欲しかった。そいつはスポーツのセンスがあり、バレーもすぐに上手くなっていった。最終的には、経験者だった俺よりもバレーの技術は優れていたし、何より彼はちゃんとスポーツとして、ゲームとして、勝負として、バレーをするメンタリティをもっていた。一つ一つのプレーに何かしらの意図があった。俺は正直なところ、彼がキャプテンになるべきだと思っていた。だが、辞退をすることは出来なかった。キャプテンを辞退すれば、部長をやらされる可能性があった。部長は高校生向けの学校説明会なんかで、部活の説明をさせられたりする面倒な役職だ。俺は、人前に立つのが苦手で、そういったことを考えると部長をやるのは気が引けた。結局、俺は何も言えず、俺がキャプテンで彼が部長となった。俺のせいで、キャプテンになってチームを指揮するべき器の男にキャプテンを任せられなかった。そればかりか、面倒な部長という役割までやらせて余計な負担を増やしてしまった。本当にすまなかったと思う。

実際強いチームになったのかと聞かれれば、決してYESとは言えない。チームはほとんど強くならなかった。これも、俺のせいだ。

俺は高校からセッターを始めて、引退までずっとセッターをやっていた。セッターは、チームの守備と攻撃を繋げる重要な役割だ。セッターが下手なチームは弱い。攻撃が成り立たないからだ。俺自身、トスが上手くなかった。そのうえ、先輩達が引退してから、普通のスタンディングトスよりも難易度の高いジャンプトスを始めだした。ジャンプトスをする必要性があったわけではない。そもそも、俺らのチームはオープンと速攻の2枚での攻撃が基本だった。ジャンプトスとは、高い位置から高い位置へトスを供給し、トスからスパイクまでの時間を少しでも早くすることで、ブロックの枚数を減らしたりブロック完成度を下げるために行うものだ。大体、試合で相手ブロックの枚数にまでこだわるのは強豪校のすることだ。俺達は弱小チームで、攻撃もオープンと速攻の2枚という単調なもの、どれだけ早さを追求しようが、必ずスパイカーにマークが付く。そのため、トスについては早さよりもスパイカーが打てるだけの正確さを追求しなければならなかった。わざわざ難しいジャンプトスをする必要などなかったのだ。



じゃあ、なぜジャンプトスなんかを始めたのか。

単純だ。



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かっこいいからだ。



それだけの理由で、自分のそしてチームの身の丈に合わないプレーをしていた。当然、トスの正確性は普通にスタンディングで上げるよりも悪くなる。皆が頑張ってレシーブしてくれたボールを上手く攻撃に繋げられなかった。チームのために真に必要なことを優先せずに、俺の身勝手な感情やエゴがチームの足を引っ張った。
本当に申し訳ない。

トスだけはない。それ以外のプレーでも、キャプテンとしてチームを引っ張れるほどの技術は無かった。大事な局面でのサーブミスを何回もした。スパイクも何回もネットにかけた。相手のスパイクやフェイントをまともに取れた記憶はあまり無い。こんな俺が練習で出来たことなど、せいぜい声を出すくらいだった。自分のプレーでさえまともに出来なかったので、チームのことなど考える余裕も無かった。

部活以外の時間でも、どういう練習をするべきか、チームの課題は何か考え工夫することはいくらでも出来た。でも、しなかった。先程も言ったように、「やれ」と言ってくれる人がいなかった。というのもあるが、当時は受験勉強の方に気持ちが流れていた。部活のことは部活の時にしか考えていなかった。何も考えていなかったのに「考える」という動詞を使うのは変だが。とにかく、部活の時間外でも、チームを強くする工夫などしていなかった。強くなりたいと口では言いながらも、実際そのための行動などしていなかった。本当に情けない。何をしたらいいのかさえ分からなかった。思考停止人間に、考えるという行為は難しかった。

顧問の先生が一応指導者ではあったが、時間が経つにつれ、とても指導者と呼べるほどのバレーの技術や知識を有していないことが分かってきた。しかし、思考停止人間だった俺は、顧問の先生が指導者たり得る存在では無いと感じつつも、その先生に任せっきりにしていた。自分の考えや判断に自信をもてない弱さや、少しでも抱えるものを減らそうとした怠惰と向き合えなかった。

次第に、俺も含め部員の顧問に対する信頼は薄れていき、集合の際なんかは誰も先生に目を合わせず俯いていた。俺もそうだった。しかし、キャプテンとしてこの状況を野放しにしてはいけないことは分かっていた。分かってはいたが、どうすればいいのか思考停止人間にはどうしようも無かった。それに、先生ともほとんど口を利かなくなる時期があったりと、俺自信が先生を避けていた。キャプテンとして部員と先生のパイプ役にならなければいけなかったのに、ただでさえ部長という面倒な役割を人に押し付けていたのに、俺は何も出来なかった。いや、しようとしなかった。

3年生になった時に、先生に任せずに自分達で練習を組み立てようという動きが一部の部員で起こった。それは言ってしまえば、先生に「僕達はあなたを信用していない」と伝えることだ。簡単なことではない。部員は皆どこか、顧問の先生を避けるところがあった。俺自身もそうだ。俺の場合は、先輩達が引退するまでは顧問の先生を信用しきっており、結構仲良くしていただけに、先生を避け始めてからは先生と話すのがかなり気まづくなった。自分達で練習をさせて欲しいと言う役割も、結局後輩にやらせてしまった。

ひたすらに自分が情けなかった。何でこんな俺が、キャプテンなんかやってるんだ。そんな器なんか微塵も無いのに。いつも、嫌な役回りを人に押し付けて、そのくせプレーでチームに貢献も出来てない。最悪なキャプテンだ。最悪な人間だ。自分は、この部にいる価値が無い。むしろ、俺がいない方がこの部は強くなったのでは無いか。
何度もそう思った。バレーに関しては何も分からなかったが、自分の情けなさだけはよく思い知った。

正直、試合でミスった仲間を叱る時なんか、内心滅茶苦茶キツかった。俺がプレーで貢献出来ていないからだ。それでも、なんとかキャプテンとしての体裁を保とうとした。少しでもキャプテンらしいことをしなくてはいけない。だからこそ、些細なミスを非難することも何度かあった。
何度も言うが、本当に申し訳なく思っている。
俺は誰かを叱れるような立場では無かった、むしろ仲間達全員から非難されるべき存在だった。

最後の試合も、普通に負けて終わった。サーブを4回中3回もミスった。センターの奴には1回もトスを上げられなかった。サーブを入れること、トスの配分を考えること、練習とはこういった当たり前のことを確実にするためのものなのだと最後の最後で思い知った。悔いの無い最後にしようとは言うが、悔いという悔いが残った。

俺は、仲間達の貴重な3年間を奪ってしまったのかもしれない。俺がもっと、練習そのものや練習の雰囲気作り、試合の反省や分析、先生と部員のパイプ役など、色々なことに責任をもって取り組んでいれば少しでもチームを前進させることが出来たかもしれない。

また、自分でやりきれないことでは、仲間を頼り協力して練習をつくりあげる努力も必要だった。俺は自分に固執するところがあったため、何でもかんでも自分で抱え込んだ、一人でやろうとした。仲間を信用していなかった。真剣にバレーをやりたいとは思いつつも、仲間と真剣に向き合うことをどこか避けていた。バレー以前の問題だった。

本当に申し訳なかった。

同期や後輩だけでなく、1年生の頃に未経験ばかりだった部員を育て、俺達のバレーの基礎をつくり、俺達にバトンを繋いでくれたキャプテンの先輩にも本当に申し訳無く思う。




すまなかった。

何故、今になってこんなことを書いているのかというと、部活を引退してから今でも、時々部活のことを思い出しては後悔しているからだ。同時に仲間達や先輩、先生にも申し訳無い気持ちでいっぱいになる。自意識過剰かもしれないが、俺の弱さやエゴが部活を駄目にしてしまった。皆の足を引っ張ってしまった。そう思われてならない。

本当にすまなかっと思う。

しかし、ここまで随分と後ろ向きなことを書いて来たが、高校卒業から3年が経った今でも、会えばあの時と変わらぬノリで、遊びや飲みに行けたりすることは嬉しく思う。大学生になって部活の友達と久々に会ったりすると、同じ部活の仲間であったことは、ただのクラスメイトとは違う特殊な繋がりなのだと実感する。



最後に、ここまで書いてきたことは俺が勝手に感じていることであって、もしかしたら俺が把握しきれていない罪もあると思う。

それも含めてあらためて、すまなかった。












そして

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