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映画「大地のうた 三部作」サタジット・レイ監督 を紹介したい

*昨年夏頃に書きかけたままで、長い間放置してしまったが、改めて、読み直して体裁を整えたので、投稿しておきたい。

昨年(2022年)日本で公開されたインド映画「RRR」が、2023年夏の現時点でも、大ヒットが続いている。夏からは日本語吹き替え版もリリースされ、ロングランが続きそうだ。実はわたしはまだ観ていない。

インド映画は、日本ではまだまだ馴染みが薄いが、映画制作の本場である米国のハリウッド映画の向こうを張って、「ボリウッド映画」として急速に認知度を高めてきているようだ。個人的な鑑賞体験としては、「きっと、うまくいく(Three Idiots)」(2009年)が、良質のおもしろエンタテイメント作品で、大いに楽しめた。

(*)インドを舞台にした大ヒット作品としては、すぐに「スラムドッグ&ミリオネア」(2008年)が思い浮かんだが、これは、調べてみると、インド人原作の物語を元に、イギリスで制作された作品であった。

昨年2022年7月に東京神保町の岩波ホールが惜しまれつつその54年にわたる歴史を閉じたことは、映画ファンで知らない人はいないだろう。1968年に多目的ホールとして開館し、74年から映画上映館としてスタートし、以降、66カ国・地域の274作品を上映。最後の上映作品は、『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』(ヴェルナー・ヘルツォーク)というドキュメンタリー作品であった(*)。この作品は、友人と観に行ったが、閉館が決まっていたこともあり、平日の午前中の上映でも、かなりの人が入っていた。閉館の理由は、「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の運営が困難と判断した」と発表されているようだが、もともと、商業ベースに乗りにくい「世界の埋もれた名画を発掘・上映する」運動(「エキプ・ド・シネマ」)として、いわば、社会貢献的な使命感のような志で運営されてきたものではないかと思う。よって、経営としては元々成り立っていなかったのではないだろうか。エンタテイメントの多様化、教養主義の衰退などによる出版不況も追い討ちをかけていたであろう。わたしは、何らかの形で、再建、再開がなされることを願う映画ファンの一人である。

(*)劇映画としての最後の上映作品は、この作品のひとつ前に上映された、「メイド・イン・バングラディッシュ」ルバイヤット・ホセイン監督 2019年 仏/バングラデシュ/デンマーク/ポルトガル
であった。

 ミニシアターや自主映画でロングランを続けるドキュメンタリー「ザ・トゥルーコスト」の劇作品版ともいえるが、実際の出来事をもとにつくられているという。世界の縫製工場と言われているバングラデシュで行われている労働搾取、人権蹂躙を告発する作品である。先進国の若い人たちを中心に、安い衣類を次から次に買い替えて楽しむ「ファスト・ファッション」の裏で、途上国では過酷な労働環境で若い女性たちが働かされている現実に改めて気付かされる。

何ヶ月か前に読んだ賀川豊彦の「死線を越えて」の時代の過酷さを思い出し、続いて、「女工哀史」の時代の女性たちの苦しみ悲しみも脳裏に浮かんだ。わずか100年ほど前には日本も同じような社会だったのだろう。彼女たちは、日本が歩んだような経済発展で救われる日が来るのだろうか。すでに徹底的にグローバル化した自由経済の構造の元では、かつての日本のようなチャンスはないのではないか。国、世界の構造が変わらない限り、貧富の差は開くばかりだろう。

この作品の深刻な内容と対照的に、働く若い女性が身につけている服(サリー)のどれもが、原色で色鮮やかなのがとても印象的だった。反対色の原色を纏っている姿も鮮やかで素敵だった。

余談になるが、この映画の字幕翻訳は、神戸女学院女子大の文学部英文科がクレジットされている。南出和余さん(准教授)が中心になっている模様であり、何回か組まれていたトークイベントにも一度登壇していた。私が鑑賞した日は、東京外大でベンガル語を専攻して現在は映画監督&文筆家という佐々木美佳さんが登壇した。社会の歪みに目を向けて行動する女性たちの姿がここにも見られた。

これも余談にはなるが、バングラデシュは、人口1億6千万人ほどのベンガル人の国(ベンガル語話者は世界全体では3億人もいるらしい)。今回紹介する「大地の歌」などで知られる世界的な詩人サタジット・レイもベンガル人だったことを今回知った。日本や日本人には縁遠いと思われるベンガル人に興味を惹かれ、少し調べてみたところ、世界的なインドの詩人として知られていて、アジア人で初のノーベル文学賞を受賞しているタゴールもベンガル人であった。さらに、ボーズ=アインシュタイン統計で現代物理に名を残している物理学者のボーズもベンガル人。貧困や男女不平等などのメカニズムを扱った経済学の理論を発展させて活躍中の、やはりアジアで初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センもベンガル人である。ミャンマーで深刻な迫害を受けているロヒンギャがベンガル人であることも寡聞にして知らなかった。

さて、本題に戻ろう。この閉館騒動に際に、この岩波ホールの第一回の上映作品は、インド映画界の巨匠サタジット・レイ監督作品「大樹のうた」であったことを知った。そして、彼の作品はこの代表的な作品を含め、一つも見ていないことにも気がついた。これはまずい。ということで、遅ればせながら(あまりにも遅い・・・)、代表作といわれる「大地の歌 三部作」を観ることにした。”インド民族の魂の人間詩”という表現で称賛されている作品。以下、ご紹介したい。

1)「大地のうた」サタジット・レイ 1955年 インド

 岩波ホール開館時に取り上げられ、その後も上映が繰り返された、歴史的な作品ということに気がつき、関心を強めた。三部作のうちの第一部。

悠久の時間が流れるインドの地で、ある家族の日々の生活が、家族の流転と成長を追いながら大河小説のように描かれる。

インドの田舎で、実直に真面目に生きる夫婦に襲う貧困と不幸。娘と息子、二人の子供は、叔母の死、出稼ぎに出た父親の長い不在、母親の厳しいしつけなどを日々経験しながらも、子供らしく無邪気に行動し成長していく。

しかしある日、雨に打たれて遊んでいた長女が、病気になり高い熱を出して寝込んだ後、亡くなる悲劇が起きる。長い不在のあと家に戻った父親も、娘の死を知って慟哭する。大切なものを失い、もうこれ以上何も失うものがなくなった、住み慣れた村を離れる決意をする。わずかばかりの家財を売り払い、借金を返して、牛の荷車に引かれて、不安と希望の混ざった眼差しを浮かべて3人は見知らぬ都会に出ていく。

全編に、インドの伝統音楽を奏でる楽器シタールのゆったりとした、時に叫びのように耳に突き刺さる調べが流れる。

インドで公開されてから11年も遅れて、1966年にATGが国内で配給して、キネマ旬報外国語映画作品第1位。(面白いことに、この年のキネマ旬報第2位は、米国でやはり1955年に公開されて、1966年にATGが国内配給したオーソン・ウェルズの「市民ケーン」。)

監督サタジット・レイが、インドを訪れていたジャン・ルノワールと出会って、この作品の構想を紹介したことが、作品制作のきっかけになったという。資金集めに苦労し、3年間かかって、西ベンガル州の資金を得た。内容にクレームがつき、完成までに苦労したものの、公開後インドで大ヒットとなり、この年インド年間最優秀作品賞。そのほか、カンヌ映画祭でのヒューマン・ドキュメント賞と国際カトリック事務局賞など、世界各地で賞を獲得している(Wikipedia等から)。

2)「大河のうた」サタジット・レイ 1956年 インド

三部作の第二作。原作に忠実に、母子(息子)の姿を描いたために、インド国内では第1作のようなヒットはしなかったという。しかし、世界の映画界では高く評価されて、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞など、数々の賞を受賞している。日本では、ATGにて1970年11月に配給され、この年のキネマ旬報外国語映画18位。

母は、息子が夢と希望を抱いて勉学に勤(いそ)しむのを見て、愛するかけがいのない息子が自分の元から離れていくのだと捉え、自分の元に留めておきたいと、思いとどまらせようとする。そういう母親の態度が、身勝手な自己愛と捉えられたという解釈があるようだ。

主人公のオプーは、苦学しながら、カルカッタの大学で勉学に励む。母親の健康のことには、思いが至らなかった。その間に母親の病状は悪化して、ついに帰らぬ人となる。深刻な容体を知らせる従兄弟からの手紙に、大慌てで田舎に戻るが・・・。

母親の死に打ちのめされながらも、決然と立ち上がり、学問で自らの人生を切り開こうと、再びカルカッタへと向かう。

3)「大樹のうた」サタジット・レイ 1959年 インド

三部作の完結編。第二部の最後に、主人公オプーが、最後の家族であった最愛の母を亡くした。妹を幼い時に、10歳で父を、17歳で母を失い、天涯孤独の身となった。

その後、授業料が払えず、卒業を待たずに大学を去り、社会に出るところから、第三部が始まる。良い仕事も見つからず苦難の中、大学での裕福な家の出身である親友が、救いの手を差し伸べてくれる。

オプーの身の上を心配するこの親友プルに、長く構想を練ってきた小説のあらすじをオプーが語る場面が、印象的だ。

***

田舎の少年の、貧しいが感受性豊かな少年だ。

僧だった父は亡くなった。

少年は父の跡を継がずに都会に出た。勉強した。

苦労しながら必死に学問を続け、迷信や偏見を捨て去っていった。

物事は知性で理解する。

しかし、想像力豊かで感受性も鋭い。

ささやかな出来事が彼の心を震わせる。

彼には偉業を成し遂げる力と可能性がある。だが、・・・

金がない。そう。でも彼は平気だ。

貧乏しようが苦労が続こうが、そんなことじゃへこたれない。

人生から逃げないんだ。

現実と向き合い、人生を生きるんだ。

・・・

***

親友プルに指摘されるまでもなく、これはオプーの自伝だ。

その後、プルの田舎に招待された際、プルの妹の結婚式が開かれる。が、当日、裕福な家の者である相手の男が、精神的な病を持っていることが発覚し、母が娘を嫁がせることを拒絶して、結婚式が流れる。

しかし、予定していた結婚の儀式が行われないと呪われるという迷信に家族は混乱する。

この時、オプーに白羽の矢が立ち、迷った末、捨て去ったはずの”迷信”を受け入れて、プルの妹と運命的な結婚をすることになる。

縁で結ばれた二人は、貧しい生活の中、仲睦まじく楽しく暮らしていく。(この短い時期の二人の姿ほど、微笑ましく、羨ましい姿はない)が、・・・

実家に戻って迎えた初産が早産となり彼女は命を落としてしまい、オプーの運命は再び暗転する。生きる力を失ったオプーは、列車に身を投げる直前で思いとどまり・・・流浪の旅に出る。

生き残った男児の養育を放棄し、5年間、炭鉱などで労働しながら過ごした跡、探しにきた親友プルと再会。息子とともに生きよと説得されるが、

「息子が許せないんだ。息子のせいで妻が死んだから」

この意外な発想にはたじろいだ。大いに違和感と驚きを感じないわけにはいかなかった。

しかし、親友の説得を受け入れて、手に負えない反抗を重ねる幼児になっていた息子を連れ戻しにいく決心をする。が、息子は、父親を認めず、反発し、馴染まない。

諦めて一人で去ろうとすると、じっとこちらを見つめている息子の姿が目に入り、

「一緒に行こう」
「おじちゃん誰??」、「カルカッタに行ったらお父さんに会える?」

こうしてついに二人は一緒になり、オプーは、息子を肩車にして、カルカッタへと向かう。その顔は輝いていた。

小津安二郎、木下恵介、黒澤明(初期)などの作品にふんだんに見られる日本的な情感あふれる光景と重なる。これは、「東洋的」普遍さと言っていいものなのかもしれない。

この年インド年間最優秀作品賞を受賞したほか、その後、アメリカやイギリスでも賞を受賞。日本では、1974/02/12 にエキプ・ド・シネマ(岩波ホール)で公開された。
この年のキネマ旬報外国語映画14位。ちょっと評価が低い気がするが、この年は、フェリーニやベルイマンや、トリュフォー、ブニュエルなどが上位を飾っているので、やむを得ないか。なお、映画評論家として突出した知名度のある佐藤忠男と淀川長治はこの映画にベストテン上位の評価を与えている。

おわり

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