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【未来に残したい愛知の祭り】 三好大提灯まつり そして、西大平藩と三河の祭りの多様性

三好稲荷閣は、幕末 に当地を治めていた、江戸南町奉行の大岡忠相を初代藩
主とする西大平藩の大岡越前守の要請により建立されたものです。ギネスブックに登録された高さ十一㍍もある三つの大提灯が掲げられ、訪れる人を圧倒します。

西大平藩についての考察、三河の祭りの多様性とも関係が

祭りと関係ないことかもしれませんが、西大平藩について、考えてみると、尾張藩と江戸幕府の緊張関係が見えてくるように思います。なんといっても西大平藩の初代藩主は現代でいうところの東京都知事と警視総監を兼務していたような江戸町奉行の大岡越前守で、その上にいる将軍は徳川吉宗です。そして、その将軍にとことん楯突いていたのが尾張藩主の徳川宗春公でした。大岡越前守が西大平藩主としてこの地に移ったとき、宗春公はまさに蟄居謹慎の身であり、そのタイミングから考えてもお目付けとしてこの地に藩を構えることになったのは明白でしょう。それだけでなく宗春公よりもさかのぼって尾張徳川二代藩主光友公の時代も横須賀に造った御殿が城ではないかと疑われた「前科」があるのが尾張藩です。幕府は尾張のそばに大岡越前守を置いたのだ考えるのが自然だと思います。
尾張と江戸の微妙な関係といえば、家康の時代からすでに尾張徳川家は目をつけられていたのではないかと思えるフシがあります。その最たるものが、清洲越しと三河の領地分けでしょう。清洲越しは一般には、西への備えを固めるためと言われてます。確かに、名古屋城は西側に低湿地が広がりさらに南北に堀川があって、名古屋の町に西から攻めるのは困難を極めるでしょう。ところが、東から攻めるには堀はまったくなく、高低差も極めて少ない。では、清洲はどうだったかと考えると清須城は東側に庄内川と五条川があり、東からの攻めを守りやすい場所でした。名古屋城を造って西の守りを固めるのはもちろん理にかなったことで疑う余地はありませんが、ここに三河の領地分割を重ねると、疑いは膨らんでくるのです。
三河国は徳川譜代の家臣が何人も国持大名として小藩が連なるようになっていました。なぜ、このように小藩がひしめく国となったのか?これは互いを監視させて尾張徳川家と繋がりにくいようにした家康の策だったのではないかと思えるのです。三河国が他国同様に一人の殿様が治めていたら、大大名の尾張徳川家と仲良しになるのは容易に想像できます。しかし、小藩がひしめいていると、お互いに牽制し、中には幕府に告げ口する殿様もいることでしょう。こうなると迂闊に尾張徳川家と仲良くすることなど出来ないです。そして極めつけが、将軍直属の部下だった大岡越前守が初代藩主となって西大平藩をこの地に構えたことでしょう。相当な緊張がこの地に走っただろうことは容易に想像できます。
しかし、この三河の国分けこそが、この地の祭文化を多様にした大きな要因の一つだったと私は思います。祭りは神様に奉納するものですが、その一方で殿様に見せるものでもあり、殿様を頂点とするヒエラルキーの中で行われています。したがって殿様がたくさんいれば、殿様の数だけ嗜好が異なり、多様性が生まれてくる。だから三河の山車は実にいろいろな形がある。ということだと思います。
例によって、これは私の勝手な考察です。写真があまりないので、いろいろ書きました。真偽のほどは・・・想像におまかせします。



現在、制作中の愛知の祭り写真集は2023年5月の出版を予定しています。そして10月下旬から、この写真集を全小中学校に寄付するクラウドファンディングを企画しております。こちらのFBページで進捗を随時発信します。

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