#71 なかなか存在しない苗字の共感

これは全然ベタな苗字でなければ無いほど、本当に堪らない出来事である。
自分の苗字が彫刻された判子を店頭で見かけた回数は生まれてから記憶にあるだけで5本の指に収まるほどしか見かけた事がない。

それを最近ではないが、川越にある”文具キムラヤ”で発見した時、別に判子以外はどこの文房具屋も変わらない品揃えの筈なのに、「ココの店は信用出来る店だな。」っていう気持ちになる。

自分は万が一、判子をどこかに忘れたり置き忘れてきてしまっても即席でコンビニやスーパーに置かれている物では代用出来ないというハンディキャップを背負いながら生活している。
だからこそ、少し前に話題になった会社のやり取りにおいて、実際に今後の自分にその行為が行われる事になるのかはさておき”会社同士のやりとりが成立した事を証明する判子を利用の撤廃”には賛同している。

しかし、家の契約など様々な場面で判子という物を今も活用する事が多々ある。

これは自分に課せられた使命と化していくものなのか?それとも「判子」という身分を証明するものの代替品が今後誕生する日が来るのを心待ちにするべきなのだろうか?
自分は後者を是非とも賛同すると共に開発に難を示しているのであれば応援又は手を貸したい限りである。

(追伸)
自分を証明するものを以上の文章で2種類の言い方にしていたんだけど、「印鑑」と「判子に違いってあるのかな……?
以上。

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