唯一無二のテキサスブルースマン。
皆さんこんばんは!いかがお過ごしでしょうか。
歌うトラックドライバーこーへーです。
ぼくは、スタエフでオリジナル曲を不定期で配信しています。
今日はぼくのアイドルブルースマンと、そのブルースマンの影響で生まれた曲の紹介をしたいと思います。
ライトニンホプキンスという男
彼の本名は、サム・ジョン・ホプキンス。
又の名をライトニンホプキンスと言います。
ブルースの世界には、本名を名乗りステージに上がる人はいません。
その辺の時代背景が面白いのですが、今日はそこは置いといて・・・
彼はフィンガースタイルのギタリストです。
親指で刻むモノトニックベースに、どろっとしたダウンホームなフレーズが特徴的。
スローブルースを演奏時、静かに六弦をトントンっと刻んでいたかと思うと・・・
急に何を血迷ったか、一弦だけをキュィーン!と12フレットまで稲妻の如く走らせます。
そんな妙なギターフレーズが彼のトレードマークです。
ギターの先生がいたら、「こら!ライトニンくん!なんだその弾き方は!」と、怒られているでしょうね。
どこか懐かしいオヤジ感。
昔、近所に「カミナリオヤジ」っていましたよね?
令和の今じゃなかなか見なくなった、あの絶滅危惧種です。
彼のブルースを聴いていると、幼少期を思い出します。
酒焼けした声、感情の起伏の激しさは、まるで突然機嫌が悪くなるあのカミナリオヤジ。
風貌もさることながら、ドスの効いたボーカルが更に拍車をかけます。
爆音で聴くとビクッとなるのでオススメしません。
ライトニンの代表曲3つ
彼のようなギターが弾きたくて、ぼくは23歳からどっぷり3年間ライトニンを聴きあさりました。
おかげで、26歳までの全てをライトニンに費やしたと言っても過言ではありません。
「俺の甘酸っぱい青春時代を返せ!」と言いたいくらいライトニンに首ったけでした。
ウィスキー片手にアコギを爪弾く、そんな絵に描いたようなブルースマン、ライトニングホプキンス。
彼のデビュー曲は「Katie Mae Blues」
ピアノは、当時コンビで活動していたサンダー・スミスかな?
ライトニンホプキンスは白人たちの発見により、1950年代あたりからようやく花が咲き始めます。
50年代にビルボードにチャートインした曲は、「ハロー・セントラル」
ギターのミスタッチもそのまま、演奏途中で「ハハッ!」て笑ってる余裕感(酒が効いてるだけかも)、12フレットへ急に飛ぶイナズマ奏法(勝手に命名)。
ライトニンを知るまでのぼくは、洗礼された綺麗な音質しか知らなかったのです。
この音源を聴いて「音楽って素でいいんだ!」って思わされました。
エンジニアが「ちゃんとしてください。」って彼には言えなかっただけかも知れませんが・・w
そして何と言っても、彼の十八番は「MojoHand」です。
うーん。カッコいい。
何度聴いてもカッコいいではないか。
因みにMojoとは、当時の黒人達にとっての魔除けのような「お守り」のことです。
日本で言うところの、映画「男はつらいよ」で渥美清が首からぶら下げているアレが近いかなと。(例えが古いことをご用捨ください。)
「ルイジアナに行ってモジョを手に入れるんだ」と歌う彼は、七夕に願い事でもする予定があったのかもしれない。
私生活は波乱万丈。
彼の逸話を文字にしようとすれば、3万文字くらいになっちゃうので今日はその中でいくつかかを掻い摘んで話します。
1930年あたりでしょうか。
彼が当時従事していた仕事は、架橋工事。
ふらふらと放浪していた時期もあり、その頃に喧嘩が原因で刑務所送りになります。
収監中は足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時のみ外されてたようです。
おかげさんで、彼の足には鎖の跡が残っていたとのこと。
来る日も来る日も厳しい重労働を課されていた彼の人生は、壮絶極まりないものだったようです。
テキサスのイカサマ野郎
彼は、ポーカーも強かったらしい。
というか、イカサマが上手かったらしいが正しい答えかもしれません。
当時、引っぱりだこだったライトニンは、「彼の音」欲しさに押しかけてきたエンジニアに対して、ギャラの交渉は一筋縄ではいかなかったとか。
「俺の音が欲しけりゃギャラをもっと出しな。納得いかないならポーカーで決めてやってもいいぜ」と、エンジニアからもガッツリもぎ取ったって話。
ライトニンを下敷きに作った曲
ぼくは当時、ライトニンのアルバムを購入するたびライナーノーツを読んでいました。
彼の逸話は一本の非公開映像を覗いてるようで、1950年のテキサスまでひとっ飛びの追体験を味わえます。
なんとか彼を主人公に曲を書きたいと思い、ようやく15年の時を経て完成しました。
タイトルは、「イカサマホプキンス」です。
イカサマホプキンスの歌詞
完成した歌詞はこんな感じです。
この絵の通り、
スキットルウィスキーを片手にサングラスをかけて、首からタオルをぶら下げてる彼をそのまんま描きました。
また、トレードマークであるGIBSON J-50を小脇に抱えて歩く姿は、ただのチンピラに見えなくも無い。
最後の爆弾。
ぼくは20代の頃、ライトニンホプキンスが好きすぎて「カミナリコーヘー」と名乗り活動していた時期がありました。
完全なる黒歴史です。
もっとも、その後に「日本のライトニン」と呼ばれる男の存在を知り、しれーっと狼煙を下ろす羽目になります。
26歳の春です。
その男とは・・・
大分の日田弁でブルースする、コージー大内さん。
ぼくはまだ彼をお目にかかったことはありませんが、いつか彼のライブに行くことが夢です。
なにせ、この歌では思わず涙しましたから。
大鶴村のサイレンは、日本ブルースの名曲と思っています。
そんなこんなで、今日はライトニンホプキンスに纏わるお話でございました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
良い一日にしてください。
失礼します!
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