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あのドーンはいいドーン「恐怖の報酬(1977)」

 爆発でも何でもかまわないが、映画の演出で突然「ドーン!」とデカい音で脅かすやつが苦手だ。ていうか単純にコワイ。病気とか事故とかで死ぬことなく老いぼれたら、おれの死因はきっと不運なドーン心臓麻痺死だ。

 たとえば最近だと「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」の序盤。あの無慈悲なドーンで、おれは推定5センチほどシートから跳び上がって死にかけた。ドハティ監督のゴジラ教狂信者ぶりにはひたすら平伏して打ち震えるほかないが、あのIMAXドーンだけは受け入れがたい(IMAXを選んだのはおれ自身だが、そういう問題ではないのだ)。

 しばらく前の話だが、そんなおれが何を血迷ったか「恐怖の報酬」を観に行った。1953年の映画を1977年にリメイクして、それをさらにコンプリートバージョンにしたやつだ。

 これがどれだけ身の程知らずな行為か、映画のあらすじを読めばわかっていただけるだろう。

 南米の小国、ポルヴェニール。祖国を追われ、この熱帯の地に流れてきたニーロ、カッセム、マンゾン、スキャンロンの4人は、生き地獄のようなこの地を離れるため、各1万ドルの「報酬」と引き換えに、300キロ先のジャングルで発生した油井火災の消火に向かうことに。一触即発の消火用ニトログリセリンを積み、2台のトラックに分乗して旅立った男たちを、密林の果てで待ち受ける運命とは―。(公式HPより)

 ドーン嫌いの人間がニトロを運ぶ話を観に行くとは何事か。しかも最寄りの上映館は川崎チネチッタ。「LIVE ZOUND」なる超絶音響システムで上映されるという。致死量を超えたドーンが待ち受けていること請け合いだ。
 それでもおれは観たかった。「ウルトラセブン」に、この映画を元ネタにしたと言われる話があるのだ。クラシック特撮オタクはそういうのに弱い。

 ウルトラセブンは1967年放送なので、元ネタにするならオリジナルの方だと気付いたのは、チケットを買った後だった。だがもはや後戻りはできない。おれは死を覚悟してシアターの暗闇に踏み入った。

 そして……結果として、おれは生きて帰ってきた。ただし、今にもドーンしそうな緊迫感にさんざん凌辱され、息も絶え絶えの状態でだ。
 しかし後悔はなかった。あえて挑戦した自分をほめてやりたい気分だった。最後まで失禁しなかったことも含めて。

 そもそもおれが一番忌み嫌うドーンは、「ドーンするかもよ? するかもよ?」と焦らすだけ焦らし、こっちの神経が極限まで過敏になったところに不意打ちドーンするやつだ。焦らすか不意打ちするか、どちらかにしてほしい。死んでしまうではないか。

「恐怖の報酬」のドーンはそうではなかった。①徹底的に焦らしたあげくドーンしないか、②徹底的に焦らしつつ十分な前置きを経てドーンするか……もしくは、③驚く暇すら与えない完全なる不意打ちだ。

 ①は結局ドーンしないから平気だとお思いだろうか? 全然そんなことはない。たとえばキービジュアルの吊り橋のシーンが①にあたるが、ご覧のとおり静止画でも失禁しそうな過酷極まるシチュエーションだ。映像の責め苦と言ってもいい。これが執拗に、ひたすら執拗に続く。なんなら流木とかも追加されてさらに過酷になる。

(もういい! やめてくれ! いっそ今すぐドーンして、あの男たちを楽にしてやってくれ!)おれは映画館のイスで身悶えしながら神に祈った。だがこの映画の神、フリードキン監督は一片の慈悲もなく、サディスティックな責め手を緩めなかった。正しく、そして恐るべき仕事だ。

 その果てに②のシチュエーションが訪れる。爆発すなわち破滅のニトロを、よりによって彼ら自身の手で起爆しなければならなくなるのだ。

 手持ちのわずかな道具やそこらの木の枝で貧弱なアナログ起爆装置を組み上げるさまが、執拗に、ひたすら執拗に描写される。
 ミスした瞬間全員爆死。おれはドーンの恐怖に身悶えしながら見守り続けた。理性的に考えれば失敗するはずがない。成功しなければ映画のストーリーが進まない。しかしそんな理屈が、①で責め苛まれたニューロンに通じるだろうか?

 もちろん最終的にはうまいことドーンしたが……その頃は既に、おれはなかば虚脱状態となっていた。
 そこにきて③だ。恐るべき②を乗り越えて安心したのか、男の一人がウカツなセリフを吐いた。疲れ果てたおれのニューロンがざわついた。(エッ? そのセリフ死亡フラグじゃ)ドーーーーン!

 鮮やかな不意打ちだった。再び身構える暇もなくドーンは成され、おれの心臓は見事に止まり損ねた。
 おかげでおれは死なずに済んだ。いや、生かされたと言ったほうがいいだろう。ドーンがもたらした破滅の残滓、スクリーンに広がる残酷な光景をただ呆然と見届けさせるために、監督がおれをドーン死させなかったのだ。

 ……しばしの後、さらにいくつかの責め苦を経て、映画は終わった。
 よろめきながら帰路につくおれの胸に去来したのは、サイバーパンクニンジャアクション小説「ニンジャスレイヤー」の一節だった。

「過去が今、私の人生を収穫に来た」

 さらなる原典があるのかおれにはわからない(誰か知ってたら教えてほしい)が、あの男たちの運命を表すにふさわしい言葉だ。
 彼らは破滅が確定した過去を捨て、ジゴクめいた街に流れ着き、そこから這い上がるべくニトロ満載のトラックに乗った。だが、捨てたはずの破滅は死神となって、トラックの後ろからひたひたと歩み寄っていたのだ。追いつかれるタイミングはそれぞれ違ったが、結局誰も逃げおおせることはできなかった。

 聞くところによると、以前のバージョンでは最後の死神の出番がカットされていたという。それはダメだ。最後まで無慈悲な完全版を観ることができて本当によかった。

 さて後日。おれはアマゾンプライムでオリジナル版が視聴できることを知り、早速した。

 オリジナルも徹底的にサディスティックだったが、方向性がやや異なっていた。ニンジャスレイヤー的に言えば、リメイク版はインガオホー、オリジナルはショッギョ・ムッジョだ。ラストの無慈悲さはリメイク版以上かもしれない。見比べてみるのも面白かろう。

 アッいつのまにか1977版サントラのなんかリマスターとかしたらしきやつがスポッティファイに! ありがたい!

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