朝食のメニュー

背中が筋肉痛気味だと思い、そうだった、昨日は棺を運んだからかと思い至った。

昨日、母の告別式をした。

1年少し前に癌が見つかり、転移も多かったので手術もできない、抗癌剤治療でうまくいくかどうかということがあれよあれよという間に明らかになった。手に痺れがいつでるか分からないということと、とにかく冷やしてはいけない(手芸が趣味だったけど針を持つのもダメ)ということで料理をはじめとする家事一般は父がすることになった。

父はキャンプに行った時とかは料理したりするが、日常的には料理をしない。姉弟で、土井義晴先生の「一汁一菜でよいという提案」を読ませ、作った料理の写真が家族のLINEに投稿されるととにかく褒めた。
次第に台所も自分が使いやすいようにコンロを変えたり、収納場所を変えたりしていた。

癌と言っても今は治療法が進んでいて、2週間に1度2日間の点滴を受ける治療で、特に入院も必要なく、自宅で過ごしていた。時には数値が悪くて投薬をスキップすることもあったが、正月や2月の誕生日の時は子と孫で集まってお祝いもできたし、直近の検査の結果ではよくなりつつあるようだったので、少し安心していた。本人も絶対に治るつもりで、医者からこれが良いと言われたことはきちんと守っていて、運動不足解消のためにできるだけ歩けと言われれば歩き、最後の日まで万歩計をつけていた。

そんな中、日曜の朝に急変し、呼吸困難と意識混濁により救急車で病院へ。一度は断られたものの、最終的には普段かかっていた病院に受け入れてもらえた。連絡を受けて病院に着いた時に父から医者が説明してくれた文書を見せてもらった。そう長くない文章に、生命の危険がある旨の記載が3回くらい書いてあった。救急の処置室から一般の病室に移ったあとは落ち着いていて、特に苦しんでいる様子はなかった。次の日には普段見てもらっている主治医の先生が来るから朝イチで診てもらえるということだった。酸素マスクに繋がっている加湿器のボコボコいう音がジャグジーの音みたいだなと思っていた。
病室に泊まりで付き添えるのは1名までということで、その日は父を残して帰った。

翌未明、再度容態が悪化したと連絡があった。病院に着いて母の手を握った。5分も経たないうちに心停止。その後一旦心拍が戻ったりしたけれど、延命措置はしないというのが本人の希望であり、それが最期となった。

遺体をきれいにしてもらう間に、病院に詰めている葬儀社から話を聞いたりしているうちに、気付いたら夜が明けていた。

病院の霊安室から母を見送ったあと、車で来ていたのは私だけだったので、父を姉2人を乗せて実家に行った。
実家につくと皆で朝食を作って食べた。ゆで卵、トマト、ほうれん草の胡麻和え、焼き芋、ベーコンと根菜のコンソメスープにトースト。
これが毎朝父が母に作っていた定番だったそうだ(本来は焼き芋ではなくてチーズだけど切れていたので)。こんだけ作るのすごいな。作りながら「こうやって使う分だけ小分けしておく便利なんや」とか「コンロが高性能でいろいろ喋りよるからかなわん」とか父は誇らしげだったが姉弟は「その切り方変じゃない?」とか「汁がたれてるって!」とかツッコミに忙しかった。

食事が終わると程なく葬儀社との打ち合わせの時間になり、諸々を決めた。それからは遺品の整理。母は手芸をしていた人なので、布やら糸やらが沢山あった。父はもとより姉弟は誰もそこまで本格的にはやらないので、作りかけのものを完成させることもできないし、何か活用することもできない。母が向こうで心置きなく作品作りができるよう母の元に届けるという意味で、人にお譲りできそうなものは除き、基本的に全て処分することにした。その過程で自分たちがちょと気に入った端切れなんかをもらったりした。姉弟で怒涛のように袋詰めして、葬儀の後に母が帰ってこれる部屋を整えることができた。

その後、通夜やら告別式があったけど、あの日に改めて家族で朝食の食卓を囲めたのがとても良かったように思う。母はもうその場にいないけれど、母がいつも食べていたのと同じものを皆で食べる。家族の食卓。

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