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キャンプにおける意味のイノベーション①

ども、デロです。



さて、先々週、僕は、巷で大流行中のソロキャンプをまた体験してきた。


実は僕は今年初のキャンプだったのだが、それはそれは、とても素晴らしい時間を過ごすことが出来たと思っている。

その理由は大きく3つある。

①ソロティピで思い描いた通りに地べた的基地的キャンプを展開出来た事。

②混雑のないキャンプ場でゆっくり静かにキャンプを出来た事。

③翌朝の想定外の積雪がサプライズだった事。

この3点について、シーンに応じて気ままに散文してみる。



このミニマムな、なんてミニマムな!

僕にとっては小さ過ぎるこのテントに屈んで入り、地べたにスレスレのインクラインチェアに偉そうに座し、パセコストーブにあたりながら、少し遠巻きに焚き火を眺める。

その行為は、ソロキャンプの一部に過ぎないが、現在、スタイルハンティング自体を楽しみたい僕にとっては、真新しいソロキャンプスタイルの重要な1シーンと言える。




コールマン286Aガソリンランタン、何の変哲もないエントリーランタンなのだが、それを地べたに構えるスタイルがここ最近ずっとマイブーム(死語)だ。ソリューションと言ってもいい。

そうする事で、ランタン、ストーブ、焚き火が、全て同じ目線に揃い、キャンプ感を増幅させる。いつもは小さな部屋で縮こまっているオレも今はキャンプに来ているのだな、と、大脳皮質がしっかり認識し、深い自己満の沼に己を埋没させてくれる。

そして、ストウブやランタンやロウソク、アナログなそれらはまさに、【事物の螺旋的発展】のいわゆる価値の変遷の中で、エンドルフィンを大量に放出させる。

ん?いや、それはそもそも...キャンプそのものがそうなのでは?と考えた時、はっ!と前頭葉が揺れ、全てがブレイクスルーしたのだった。

それは、キャンプとはすなわち【意味のイノベーション】に他ならない、と考えたのだった。


ご興味ある方はベルガンティ教授の本を少し参照してみていただきたい。


↑この、狭い狭い素晴らしく窮屈な空間よ!僕がこの空間に入らねばならない合理的理由は何一つない。


WAQの2WAYフォールディングコットを低空に入れてみたが、ソロティピーの傾斜がやや邪魔で気になり、無い方が寝やすい事もこの実践を通して学ぶ事が出来た。

もとより、このバンドックソロティピー1TCに付属するインナーを使ってまで、夏にこいつでキャンプする事は考えていないのだが。

この幕はあくまで、虫のいない冬シーズンにパッカーンと地べたでやる用に、周到に準備されたstuffなのだ。

過去何度か記してきた通り、僕は腰痛持ちであるが、この小さなスペースで、過ごす時間の尊さよ。あぁ、主よ、人の望みの喜びよ。

やはり、時々ぼくは、これがいい。時々だが、このスタイルがいい、とつくづく思った。



大分むぎ焼酎二階堂は、いいちこに飽きると飲む酒だ。でも、二階堂の方が優しく感じるのは何故だろう。それはきっとラベルのせいだろう、ましてやお湯で割るからでは決してない。

【キャンプと酒】このマリアージュはきっと詩歌に違いない。今それはSNSにおいて、まさに螺旋的に昇華しているようにさえ見える。



↑主よ、人の望みの喜びよ。それはこの事かもしれぬ。

ミニマルワークス ガスコンテイナーマスク
【minhmalworks Gas Canister Mask】を投入。

僕はこの「ローソク」における意味の文脈が好きだ。

螺旋的発展。キャンプの価値はまさにこれに似ていると気づいてしまったからだ。





設営後、特に料理するわけではなく、すぐに出来合いの握り寿司とアジフライを開け、食べ始め、飲み始める。しかも割り箸でだ。心地いいではないか。

しかし、SDGsの観点においては、このゴミを出す僕のスタイルは、全くの放蕩である。

ならば、一度ソロキャンプを演繹法で定義してみよう。

お決まりの通りだが、

人はいつか死ぬ。
ソクラテスは人である。
ソクラテスはいつか死ぬ。

遊びとは自由である
キャンプは遊びである
キャンプは自由である

そう、キャンプでプラ容器に入ったお惣菜を割り箸で食べても誰に文句言われる筋合いはないのだ。ましてや、料理しなくてもいい、したけりゃ、すればいい。

キャンプは自由なのだ。

しかし、こうとも言えるから、奥が深い。

キャンプには終わりがある
外で過ごすことがキャンプである
外で過ごす事には終わりがある

規範を知ることはスキルの一部である
キャンプにはスキルがいる
キャンプには規範を知る事が必要だ

少し破綻気味だが、

まさしく、最低限の規範の上に自由は成り立つ。

このキャンプ場のゴミは持ち帰りだ。



↑退屈よ、去れ。洞窟のような、この張り方が僕は気に入った。





僕は単独ソロキャンプは、極力混雑のないところで静かにキャンプがしたい。出来れば近場でも、ロケーションはバラエティー豊かにキャンプしたい。僕はその方が単純に楽しい。

もちろん叶わぬ事も多いが、今回訪れたこのキャンプ場は、雄大な山に囲まれ、混雑のない稀有なキャンプ場だった。

以前は当たり前に出来た【静かなソロキャンプ】は、今はもはや、それ自体が大きな価値となってしまった。
物事が当たり前に成立し過ぎている(ように見える)時、僕らはその本当の価値に気づき難い。

「自ら求めて努力しないと叶わない」当たり前事が日々増えつつある。

僕の求める静かにゆっくり過ごすキャンプは、実現し難くなった事を改めて認識する。

貴重な休日に、混雑したところで、わざわざ独りでキャンプしたくないのだ、僕は。


↑晴れ渡る空、少しの風、嬉し恥ずかしの新幕。キャンプによくある風景だ。


↑薪をセットしても、すぐには燃やさないのが、自分流。その瞬間のアトモスフィアをまず楽しみ尽くす。

最近意識している事。男は特に下手くそかもしれない。

その楽しさや快適さ、美味しさ、何でもいいけど、自分にとってパワーになるもの、発散できる事なんかを、その器の持つキャパシティが、ヒーヒー言うまで、跳ねるようにレバレッジさせ、使い倒して、明日の糧とする事。

それが、やはりいい仕事に繋がるのでは、と思い始めた。

限界まで「楽しい」を活用せよ、起伏せよ、という事。それはきっと他のことで確かなパフォーマンスにつながり得るという事。

個人の、よりパーソナルな体験が価値化される現代のソーシャルネットワークコミュニティ上では、特にそれは自明かもしれない。



↑すべてをモクモクに処すスモーキーの刑を断行。お陰で今回、新入り含めて全てのstuffが、焚き火臭の洗練を受けた。古ぼけたスマホケースも例外ではなく、仕事中に軽く焚き火臭がしてくる時は、軽くめまいがする。







↑この時は翌朝の雲海のような景色に、期待していたが、結果は180度反転した。







焚き火でリフレクターが明るくなる。悪くない。

そして、反射による赤外線効果で暖かい。

火を前に全ての起源を妄想する。RAM上にある僕の記憶は全て都合よくリセットされ、人としてのストレージはまたその容量を取り戻す。



こうして鼻息荒いおっさんの夜は静かにふけていったのだ。




デロ







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