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トップを狙うのやめてみたら

結果が出ないと油汗が出てくることもあります。

時の寵を受けてる人を見て顔が蒼くなることもあります。

若い頃は、時の寵を受けてる人が憧れになる場合もあります。

私も若い頃ギターを持って、布袋寅泰やジミーペイジを目標にしていた時期がありました。
結果だけを先に言ってしまえば、私は、いきものがかりや星野源みたいなプロのミュージシャンになることはなく、地元のローカルなミュージシャンになることも失敗しました。

二十代までであれば、より高い目標を持って絶望したりするのも、首を吊ったり、生涯刑務所から出てこれないようなことを仕出かしたりしなければ、薬になる場合もなくはありません。
しかし、ある程度の年になって相変わらず自己否定の連続だと人生楽しくありません。
結局、色々なことを楽しめなくなってくるひとつの要因は、今日、寵を受けてる人やトップに君臨している人たちに気持のピントが合ってしまうからじゃないかって気もします。
そうすると、自分は無価値のような気がしてきます。
若い頃であれば、時の寵を受けてる人やトップに君臨してる人達を自分と同一視できることもありますよね?
でも、時を得るに従って、違いのほうが大きくなっていく。



成功している人達をみると、価値が出るためにはこうすればいいんだよというスタンダードがあるような幻想を持ってしまいます。
さらに、そのスタンダードに近づくためには最短距離があるような幻想がそこに重なります。
大学受験までの学科の勉強とかだったら、ある程度こういったことは当てはまるのかもしれません。
与えられた問いに対し正解が複数あることは少ないからです。(ただ大学受験みたいなことでも、そこで二浪してしまった私の個人的意見をいえば、最短距離なんてものはねえよ、というのが正直なところです)

トップがあるってことは、無意識に何らかのタテ型のヒエラルキー(序列秩序)みたいなものが想定されてるってことですよね。
でもそうすると、他者と較べてすぐ無価値観に苛まれます。
そう考えると、トップを狙うというのは、100人にひとりいるかいないかの類稀な資質の持ち主でない限り、かえってその人の力を奪ってしまうといえないでしょうか?
もっと下に…せいぜい中堅どころにピントを合わせ、それでもウツになるんだったらもっと下でもいいかもしれません。またトップ・中堅・下流みたいなタテ型区分をとっ払ってものごとに取り組むのがよいかもしれません。
そんな区分はそもそも考えてみたこともないというんであれば、あなたは、ふた昔前の日本で中流とよばれるところに属していた人たちに似たしあわせな人です。まわりをあまり気にせずマイペースで人生を送ってる方でしょう。
ちょっとはなしがそれてしまいましたが、タテ型のヒエラルキーを悪い意味で意識しすぎると、そこは勝ちと負けしか存在しないレッドオーシャン化が進んでしまい、まわりの人と撃ち落とし合戦や足の引っ張り合いしかない世界になってしまうかもしれません。

トップを狙わないなんて、腑抜けたサラリーマンか公務員の発想だ!と憤る人もいるかもしれません。
確かに、自営の人や人生をそこに賭けるような仕事を持っている人は毎日が真剣勝負であり、トップを狙わないなんてほどほど主義は耐えられないかもしれません。
しかし人生の考え方は置かれている状況によっても変わってきます。
たとえば、私は、今年会社を辞めて、現在派遣労働をやっていて時間給商売なため、意味のないところで熱くならないことも重要です。変なエリート主義(?)に走っても全く報われませんし、あとで「搾取されている」という被害妄想感だけがのこることも考えられます。(もちろん、それは手を抜きまくるというようなこととは違います。貰ってる額は少ないのにある程度必死こいてやらないとまずい仕事のほうが多いです)
またまた自分にとっては、えらく昔の受験時代のはなしになりますが、難関校向けのハイレベルな問題集と無駄に格闘するのを思い切ってやめて、中堅校レベル向けの問題集をしかっりやるようになって、私の成績は変化し始めたのです。もちろんそれは体験談でしかなく、どんな時にでも応用の利くことではないかもしれません。

トップを狙うとズタズタです。
もちろん成功者と自分の自己同一視が可能で、ポジティブにそれを眺められる場合は別です。
しかしそうでなければ、今、有力人物達から拍手喝采を受けているあの人を手本に自分の欠点を矯正しようとする…
そのやり方でこそ伸びる場合もありますが、やってることがつまらなくなってしまうこともあります。

こういった理屈で人はホントに自由になれるのか?
いや、それは正直分かりません。
でも、トップを狙ったり、言い換えれば人の評判を気にしすぎたりすることが、色々なことをつまらなくしてしまう原因かなぁと考えることもあります。
受験勉強をやってるような若い世代は、トップを狙ってみるべきでしょう。それなりの気力・体力もあるでしょうし…
しかし、ある程度年をとってくると、外の基準にばかり自分を合わせていると疲れてくるし、そこで無理して頑張って益のある層と益のない層に分かれてくるんですよね。こう言うと若い世代から「おっさんだ!」「老害だ!」とののしられてしまうかもしれません。
職場なんかでは無論ある程度外の基準を満たしていることが求められます。
でも、それ以外の場所で外の基準やトップみたいな幻想からどこまで自由になれるか…このnoteも、あんまり素晴らしい結果を出してる人と自分を較べちゃうと一切が無意味に思えたりすることもあるんでこんな記事を書きました。トップを狙うのやめたら?(えぇっ、あんたトップ狙ってたんかい?
いや、そういうわけじゃ必ずしもないですけど、ただ結果が出ないなと落ち込んだり、やる気がでない時に時の寵を受けてる人をみたりすると心が無意味にかき乱されたり、トップや成功者の基準にムリに自分を合わせようとしてつまらなくなっている自分がいたりはします)

まあ、言いたかったことは、noteでも、趣味でやってるカメラでも何でもいいですけど、タテの序列に対する意識が過剰になったり、外の基準に合わせることばかりかんがえちゃうと、つまらなく思えてくることが多いんじゃないかと(ゲームとかでタテの序列がハッキリしたほうが燃えるという人もいるでしょう)
あとタテの序列に対する意識がそう簡単にはとっ払えないというんであれば、トップを狙って変に背伸びして虻蜂取らずの結果になって空回りするより、中堅どころに的を絞ったほうが実際的な場合も多いんじゃないかということです。
もちろんこういった意見も、人生をそこに賭けてやるやるような仕事の場合は変わってきます。その場合は妥協することなく今日の常識を超えていくのが正解の場合もあるでしょう。

(あとがき)夏の疲れや派遣の疲れやで更新の間隔がだんだん長くなりつつあります。書くことに対するモチベーションはモーレツに低下してて、ムリに文章を組み立てようとすると胃のあたりが痛んだりして…今回も二週間くらい間があいてしまって、ダッシュボードもそろそろ動かなくなるだろうな…と思って覗いてみるとかろうじて前日比で「3」アップしてる(記録は夜勤の仕事があるとき以外は結構マメにつけています。現在までのところつける意味あんの?ってくらいな数字ですけど。)「0」ではなく「3」だったという事実に急にやる気が湧いてきて、あっという間にこの記事を書きました。胃の痛みもウソのように消えました。どんな記事を書いても5000ビューを下らないという人もいるというのに「3」アップしたくらいでこんなに元気になるなんて、人間ってげんきんなものだなぁと驚いています。
ダッシュボードの結果も数字を軸にヒエラルキー化するときっと上流・中流・下流って区分ができてしまうんでしょうけど、半年でフォロワー1000人いかないやつはやってる意味がないとか、そういう意見、どうにかなんないのかな、て思ったのもこの記事を書いた動機のひとつです。まぁ、そういう意見があるべきじゃないとかまでは思いませんし、確かに、やってる意味がないように落ち込むことも正直ありますけど。
ともあれ、記事が無事更新できたことにほっとしています。

御一読ありがとうございました。




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