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Fania Recordsについて②

【サルサが生まれた背景】

60年代に、ニューヨークではプエルトリカン・ミュージシャンの間でデスカルガ(ジャム・セッション)が頻繁に行われていた。それはキューバというルーツから断絶させられた彼らのアイデンティティーを模索する行為だったという。そこでは、これまで流行した様々なキューバ音楽とジャズやロックやソウルなどを掛け合わせる様々な実験が行われていたのである。そこから、ブーガルーやサルサが生まれた。

1492年に、スペイン人のコロンブスによってキューバは発見された。カリブ海の島々を植民地化したスペイン人による過酷な労働と疫病で先住民は激減した。変わりの労働力として輸入されたのが、現在のマリ、セネガル、コンゴ民主共和国といったアフリカ諸国の人々である。彼らは、労働の合間に祖国の太鼓を叩き、歌い・踊り・神に祈った。そのリズムがスペイン由来の音楽と融合し様々なキューバ音楽を産んでいく。つまり、キューバ音楽のルーツはアフリカなのだ。

19世紀後半に生まれたハバネラをはじめ、ダンソン、ルンバ、ソン、、、次々と新しいキューバ音楽が生まれていった。1920年代には、ソンをベースにした「南京豆売り(1927)」がルンバとしてニューヨークで紹介され大ヒットとなった。Moises Simon Rodriguezが露天商の掛け声から着想を得て作詞・作曲したものだった。このヒット以降、この曲は数十年に渡り世界中のアーティストにカヴァーされた。

【サルサとFania Records】

時代が前後したが、キューバ音楽がニューヨークをはじめとして世界各地でポピュラリティーを確立していく中、64年に〈Fania Records〉が設立された。ラテン・コミュニティー内で流行していたブーガルーやサルサを次々とレコーディングしレコードとしてリリースしていく。Celia Cruz、Tito Puente、Pete Rodriguez、Joe Cuba、Willie Colón、Hector Lavoe、Ruben Blades、、、数々のアーティストを輩出した。そして、68年にJohnny Pachecoが腕利きのミュージシャンを集め結成したのがFania All Stars(余談だが、サザン・オール・スターズの名前の由来でもある)だ。セッション・バンドとしてレコーディングに参加。その後、71年には、ファニア・オールスターズがクラブ「チーター」でのライヴを行った。その模様を撮影した映画〈Our Latin Thing〉を公開し、サルサをアンダーグラウンドからアメリカ・ミュージック・シーンのメインストリームへと押し上げた。それはニューヨーク在住のプエルトカン達、いわゆるニューヨリカン達が自分たちの音楽を生み出した新しい歴史の始まりだった。73年には、Fania All Starsによるヤンキー・スタジアムの公演(4万人の観衆を集めた)はアルバムにもなっている。

Fania Records〉は、カリブ系アメリカ人の生み出した様々な音楽がアフリカがルーツであることを強調している。ことあるごとに、アフリカでライヴも行ってきた。74年には、ニューヨークのサルサ人気爆発の全盛期に、〈キンシャサの奇跡〉として有名なジョージ・フォアマンvsモハメッド・アリ世界タイトル戦の前哨として行われたZaire 74(黒いウッドストック)にCelia Cruz、Hector LavoeらとFania All Starsが出演、 コンゴ民主共和国キンシャサのスタジアムで8万人もの観客の前で演奏を披露した( James Brown, Bill Withers, B.B. King, and The Spinners、Sister Sledgeらも参加)

その後も、サルサというラテン・ミュージックと共に興隆を極めた〈Fania Records〉は、ソウルの〈Motown〉、ジャズの〈Blue Note〉と並び称される名門ラテン・レーベルなのだ。サルサ以降もその時代の新しいラテン・ミュージックをリリースしてきている。しかし、05年 マイアミのレコード会社である〈イームジカ〉に買収された。その後、09年には〈Código Entertainment, LLC〉が権利を獲得し現在に至る。

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