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Fania Recordsについて①

【Fania Recordsの誕生】

ニューヨークをベースに、ラテン・ミュージックを世界に紹介してきた名門〈Fania Records〉。64年、イタリア系アメリカ人弁護士のGerald "Jerry" Masucciとドミニカ共和国生まれのミュージシャン、Johnny Pachecoによってたった2,500ドルの資本金でスタートした。 

50年代に活躍したバンド、Estrellas De Chocolateのヴォーカリストの名前からとった「Fania」という曲がキューバで大ヒットした。この曲がレーベル名の由来のようだ。その曲はJohnny Pachecoの〈Fania〉第一弾アルバム『Canonazo』にも収められている。サイト〈Johnny Pacheco〉より。

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59年に当時大流行していたマンボのセッション・ミュージシャンとして活動をはじめたJohnny Pachecoは、一家に一枚はマンボのレコードがあると言われたほどマンボが売れに売れていたにもかかわらず、ミュージシャン達は音楽だけで生計を立てていないという現実を知った。そんな状況を打破するために、レコード販売によるミュージシャンの収入を保証する手段としてファニアをはじめたという。また、ニューヨークに数多いる優秀なミュージシャンたちに演奏の機会を与えるべく尽力した。だから〈Fania Records〉は、ミュージシャン対会社ではなくまるでファミリーのような関係だった。エディー・パリミエリは言った。

「そして残念なことに、現在そのような会社はありません」

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Celia Cruz(下、中央)、Ruben Blades(Celia Cruzの真上)、レーベルの共同創始者であるJohnny Pacheco(左から5番目)など、Fania Recordsの歌手とミュージシャン。

【Fania Records誕生の時代背景】

59年にキューバ革命が起きた。それによってアメリカとキューバは国交を断絶した。当時のニューヨークでは、キューバ由来のソンやそこから派生したマンボやチャチャチャやパチャンガなど様々なキューバ音楽がシーンを席巻したが、そのせいで、ニューヨークにはキューバの楽団がいなくなった。かわりにプエルトリコ系ミュージシャンが多くなった。また、世代交代したことでアフリカ系アメリカ人の生み出すドゥーワップ/R&B/ソウルが人気となっていった。それまでのポピュラーなラテン音楽の人気は下火となった。そんな時代のせいか、マンボの時代に隆盛を極めたナイト・クラブやホールが次々と閉店していった。しかし、残ったお店では、ミュージシャンの間ではデスカルガ(ジャム・セッション)が頻繁に行われていた。それはキューバというルーツから断絶させられた彼らのアイデンティティーを模索する行為だったという。そこでマンボとR&Bを融合させたブーガルーサルサがJohnny Pacheco、Ray Barrettoらによって生み出された。それは60年代初頭、ヒスパニック系アメリカ人コミュニティーの話だ。

【Fania Recordsの時代】

Fania Records〉はそのブーガルーやサルサを積極的に紹介していった。ご存知、イースト・ハーレム生まれのアフリカ系フィリピーノ、Joe BataanがThe Impressionsの「Gypsy Woman」を、ブロンクス生まれのRalfi PaganがBreadの「Make It With You」カヴァーでそれぞれがヒットを飛ばしブーガルーのアイコンとなった。それはコミュニテイー内だけの話ではない。その人気はもはや全国区だった。

続く、、、。


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