『天使の涙』
8月末にザ・アリーナが終わって以降、己のテンションと連動するかのように気温は急激に低下するわ生きる楽しみは無くなるわですっかりがらんどうになっていた私を救ったのがウォン・カーウァイ4K上映でした。0時になった瞬間オンラインチケット予約戦に参加したり、Googleマップを駆使して初めての映画館に飛び込んだり、カーウァイの映画を観に行くたびにさながらコンサートのような高揚感を得ることが出来た。2022年の秋の記憶は金城武とトニー・レオン、レスリー・チャンに彩られていたと言っても過言ではない。パンフレットはあまり買わないタイプだけど今回は即購入し、この作品について語られた言葉の一言一句を噛み締めながら読んだ。『花様年華』は既に観ていたので、『ブエノスアイレス』『恋する惑星』『天使の涙』『2046』『欲望の翼』を観に行った。一番好きだったのが『天使の涙』で、これは映画館に二度足を運ぶほど強烈に心を打った。あまりに受け取るものが多かったので、少しばかり感想を残しておきます。
私はいわゆるゆとり世代で、競争はやめよう、他者と優劣をつけないようにしよう、誰もがみんな特別な存在なんだ!と刷り込まれて生きてきた。SMAPの有名な歌にもそのままそういう歌詞がある。「ナンバーワンにならなくてもいい 元々特別なオンリーワン」と。私はあの歌が流行った時代に小学生だった。つまりゆとり教育フル受講者であり、この歌が流行った当時もゆとり教育の真っ只中だった。とにもかくにもみんながみんな素晴らしいんだ!一番を目指すんじゃなくてそれぞれの特性を伸ばしていこう!という虚実の方向に日本全体が傾いていた。私もきっとそれが正しくて善いことなのだと信じていた。信じていたというか疑う余地がなかった。
しかし、年を重ねるにつれ、徐々にオンリーワンの難しさを知ることになった。ナンバーワンには決められた道筋やセオリーがあり、それを地道に実践していけば、たとえナンバーワンにはなれなかったとしてもそれなりの成果は得られる。一方でオンリーワンはなり方の教科書がない。オンリー、なんだからそりゃあ無いに決まってる。と、なるとナンバーワンよりオンリーワンになるほうが断然難しいよね?みんな元々特別なんだよ、と諭す人もいるかもしれないけど、残念ながら大抵の人間は無個性で凡庸だ。影があるから光が存在するのと同じように、凡庸な人間がいるから特別な人間が輝くのだ。大抵の人が素質的になれないオンリーワンを目指すより、みんなで死に物狂いで何らかのナンバーワンを目指そう!無理だったらトップ10!という教育の方がよほど優しくて生産的であると思う。
といった具合で思春期くらいからオンリーワン論に非常に嫌悪感を抱いていた。この嫌悪感は無個性でどこにでもいる存在である自分への苛立ちも含まれている。
そういう思想ベースがある中で観た『天使の涙』のカタルシス感はどんな経験にも代え難かった。他人は代替可能な存在だし、人は人のことを簡単に忘れるし、人は人に忘れ去られる。作中のエージェントや金髪女にとって殺し屋はオンリーワンだったかもしれないが、殺し屋にとって彼女らはそうではない。思い立ったら即日捨てられる存在だ。別れ際、殺し屋が金髪女に言った「彼女にとって俺は通過点だ。早く彼女を愛する男を見つけてほしい。」という言葉も空虚な重みを持って響いた。殺し屋自身は自分のことを特別だなんて認識しておらず、寧ろ単なる通過点だと自認している。彼女が殺し屋を"特別"だと思う感情は、殺し屋には1mmも届いていない。「顔は忘れても痛みは忘れないから」と、金髪女は去り際に悔し紛れに殺し屋の腕を噛むけれど、この痛みもいずれ忘れるだろう。そして、もちろん殺し屋は彼女の顔も忘れるだろう。
そうやって傷を付けたり付けられたりを繰り返し、ぱっくり開いた傷から中身が全てこぼれ落ちて空っぽの身体になってようやく人は唯一無二の自分と向き合えるようになる。だから、私はモウが死んだ父親の遺品を1人で整理するシーンがいっとう好きだった。他者を見つめることをやめ、また他者から見つめられることをやめられて、ようやく人は自分自身に向き合うことが出来る。
この映画の登場人物は特別ではない。都会であればこのような人々はきっとどこにだっていて、みんな同じようなことを主語を変えながら反復している。それは彼ら自身も認識していて、いずれ忘れてしまうことも忘れ去られることも分かっている。だからこそ今この瞬間を、身を焼きながら燃えるように鮮烈に生きている。『天使の涙』の5人は誰もが特別な人の特別になれず、誰の記憶に残らず生きていくことになるんだろうけど、それは別に悲観すべきことではない。特別にならなくても生きていていいのだと彼らが気丈に示してくれた。
私もいつかこの映画の内容を忘れるだろう。実際、観てからそんなに時間は経っていないが登場人物の名前をググりながらこの記事を書く程度には記憶が曖昧になっていた。強烈に印象に残るような起承転結のあるストーリーではないからだ。何年か経ったら更にもっと色んなことを忘れ、よく思い出せないけどなんか好きな映画だったなという印象だけがそこに残るのだろう。都市は、香港は、東京もきっとそんな街で、きっと何年後かに私はこの土地を離れ、この街で何が起きたかの全ては思い出せなくなるけれど、一瞬一瞬を全身で生きたことと、あーなんか好きだったなということだけは永遠に覚えていたい。この映画みたいに。
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