この秋、いちばん静かな食卓

朝のダイニング。マグカップに入れたコーヒーから湯気が立ち昇る。温めたトーストにのせたチーズが中途半端に溶けかかっている。コーヒーの香りがほとんどしない。まだ本調子ではないようだ。

数年ぶりに風邪をこじらせた。会社を休み、病院へも行った。処方された薬を飲んで一晩眠れば治る。昨夜、布団に入るまではそう信じていた。信じたのは薬の効果なのか、己の回復力なのか、両者なのかわからない。わかっていることは、それが過信であったことだけだ。

「今日も会社を休もうと思う」僕は宣言した。なぜ「思う」と付けてしまうのだろう。いつも何かに怯えたように言い切れない。思うことによって、宣言が覆されたときの予防線を張っているのか。《あの宣言は「思う」ってあるとおり、希望であり理想だよ》

「今日のコーヒー濃いかな?」妻は僕の宣言とはまるで関係ないことを口にした。「いつもと変わらない」と僕は答えた。インスタントコーヒーを入れたのは僕だ。銘柄も入れ方もいつもと同じだ。「変わらないことって素敵よね。本当は変わっているはずなのに、変わらないように見せている。信じさせている。そこに何があると思って?」彼女が何を言っているのか、まったくわからなかった。インスタントコーヒーへの不満ならメーカーの窓口にメールを送るだけのことだ。彼女はテーブルに置いたマグカップを両手で包み込み、そこから上がってくる湯気に、ふう、と息を吹きかけた。少し世界がぼやける。

「強さよ」彼女は言った。「変わらないように見せる強さ」言い終えると彼女はマグカップを持ち上げ、軽く口をつけてからテーブルに置いた。彼女の支配から逃れたマグカップのふちには桃色をした唇の分身が遺されていた。

「で、今日は何をするの?」彼女は僕を見つめた。「今日は会社に行くことにしたよ。身体も大丈夫そうだ」僕は言った。「思う」は付けなかった。「そう。良かった」彼女はマグカップを包み込みながら言った。

#小説

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?