自己紹介


自分の非モテの原因

 学生の頃、遊びを全くせずに勉強に打ち込みすぎてしまい、恋愛経験を積んでこなかったことが原因である。自分の過去を振り返ってみてわかったが、父親に逆らうことが出来ず、親にとって良い子で在ろうとした。その結果、自分でも知らないうちに勉強が楽しいものになってしまい、青春を捧げてしまった。29歳の今になるまで恋愛が無くても良い物だと思い、結果、29歳まで恋愛経験を積まずにここまで来てしまった。
 筆者の過去を振り返り、決意を新たにしたので最後まで読んでいただけると幸いです。

スペックとプロフィール

まずは自分のスペックとプロフィールを
年齢 : 29歳
身長 : 160cm (かなりコンプレックス)
体重 : 55kg
同居人 : 1人暮らし
持病 : なし (過去・失声症/チック症あり)
職業 : 会社員
年収 : 600万弱
学歴 : 大学院卒
経験人数 : 10人 (風俗/素人童貞)

誕生

 1995年2月、岐阜県にある家庭の長男として生まれる。父・普通のサラリーマン、母・専業主婦と昔ならどこにでもありそうな平凡な一般家庭に生まれる。
 生まれてから小学1年生までの事は正直覚えていない。

小学生編

小学2年生

 掃除担当がトイレになり、先輩がふざけてスリッパを女子トイレに投げ入れる遊びをしだす。しかし、当時は何も気にせず、自分は回収しに行った。 「女子ベンエロッチ」というあだ名をつけられる。小学校にありがちなあだ名だったが、この名前は自分にとってかなりコンプレックスになっていた。
 当時かなり内気で気弱だった自分は父親に相談。父親からは「それは自分が嫌だと言っていないのが悪い!!!」と激怒される。その時から父親に逆らうことが出来なくなっていた。この頃から、自分に対してかなり自信が無くなっていった。

小学3年生

 小学校は1,2年、3,4年、5,6年と2年単位でクラス替えを行う事になっていた。筆者が3年生になった時もクラス替えがあり、人生で初めて人目惚れをし、長く恋心を募らせたMちゃんに出会う。身長が高く、かなり美人であったMちゃんの事が好きになった。
 小学生男子にありがちな、好きな女の子にちょっかいを出して気を引こうとするといったことをよくやっていた。

小学5,6年生

 小学校5,6年になったある日、自分の親友だった子とM子ちゃんが両想いだと知る。小学生いう事もあり、お互いがお互いに意識しているが踏み出せないという状況を目の当たりにする。失恋したという気持ちになりつつも、自分は気持ちを伝えるのが怖く、告白をする事が出来なかった。

中学生編

 父親の意向で何かしら運動系の部活に入ることを強制された。逆らえなかった自分は、父親が中学時代に入っていたバスケ部に入部することになる。今思い出してもかなりハードな内容でトラウマである。休む事やさぼる事は許さないといった『古き良き昭和の時代』が似合う熱血コーチが担当し、自分を含め部員は全員恐怖・萎縮し、中学は全てバスケに捧げる事になった。ただ、極端な運動音痴だった自分は、練習を重ねても一向に上手くならず、そこで運動は向いていないと悟り、引退後は運動から距離を置くようになる。
 そんなバスケ部に入って唯一良かったこととしては、自分を気にかけてくれる友達(Y君)が出来た事である。Y君はかなり交友関係が広く、女の子とよく話していた。自分を含めて女の子と遊ぶ予定を入れてくれ、何回か女友達と遊びに行くようになる。この時まで女性に対して緊張して全く話すことが出来なかったが、Y君のおかげで女性と会話をする事対する抵抗は次第に無くなっていった。本人には言っていないが、自分はかなり感謝している。正直、Y君がいなければ、女性と一切話すことが出来ない最悪な対女性コミュ症になっていただろう。
 中学3年最後の夏のインターハイが終わって部活から解放された頃、やることも無くなった自分は、周りと同じように高校受験勉強を始める事になる。自分としても理由はわからないが、特に理由もなく勉強の楽しさに目覚めてしまう。また、同じ塾に通っていた子から「バカとテストと召喚獣」というライトノベルを借りて読んでみるとかなり面白いとドはまりしてしまう。元から父親が生粋のアニメ・ゲーム好きという事もあり、ここでオタク趣味に目覚める。
 スポーツが出来ない、特にこれといった特技も無い、今まで何のとりえもないと思っていた自分は中途半端に勉強が出来て、それによってドンドン成長していくのが感じ取れた自分は、勉強する事やオタク趣味に時間を割く事が生きがいになって行った。ここから非モテ街道まっしぐらの人生を歩むことになる。

高校生編

 高校に入学後、Mちゃんとも同じ高校になった。しかし、当時も思いを告げられなかった自分はMちゃんに対して非モテコミットを連発してしまった。 

  • 気になるたびに自分からメールを送る

  • 夜遅くまでメールをして返信が来ることに喜んでしまう

  • 追いメールをし続ける

 今となってはかなり痛い言動や行動をしてしまったと思う。
 高校1年生の10月頃だろうか。(詳しくは覚えていない) 朝起きて自宅のリビングに向かうも、のどに違和感を感じる。昨晩、カラオケで喉をつぶしたという事でも、風邪を引いたのとも違う。ただ、明らかに"何か"が違うという強烈な違和感を感じた。気のせいだと思い、気にすることなく学校に登校することにした。そして、国語(もしくは保健体育?)の授業で教科書を読むように指名された。起立して教科書を開き、読もうとした。。。が、"声がでない"のである。原因は全く分からなかった。実際に病院で診断したわけではないが、恐らく失声症という病気だと思う。症状はかなりひどく、"な"や"ま"行等、一度口を閉じる動きを挟む動作の言葉を発する事が厳しくなっていた。一文字目がこれらの音に該当すると、のどが痙攣して発する事が出来ないのである。
 周りの人はかなり訝しんだと思う。原因は全く心辺りが無い。なぜこうなってしまったのか、何で自分がこうまで苦しまなければならないのか、、、身体が思うように動いてくれない、それが当時の自分にとって、かなり恥ずかしく、当時はかなり嫌だった。周りとコミュニケーションをうまく取る事が出来ない。周りに迷惑をかけてしまう。そういった考えが頭をぐるぐると支配していき、いつしか、自分からクラスメイトと距離を取るようになっていった。
 これが更に非モテを加速させてしまい、女子との距離も取るようになってしまった。そして、中途半端に勉強が出来てしまったせいで、学力テストを学内で1位を取ったり、数学で校内表彰されたことで自己肯定感が満たされていき、更に勉強に専念することになる。
 ただ、現役でY大学を受けるも不合格、浪人することになる。

浪人生編

 受験に失敗した。父親から「1浪だけなら許してやる」と言われ、浪人することになる。同じように、受験に失敗した同級生4人と一緒に名古屋・千種K塾に通う事に決めた。浪人生活は親に対してかなり申し訳なく、肩身の狭い思いをしながら実家で暮らしていた。
 そのK塾でD先生という化学講師に出会う。勉強は割とできると思っていた当時の自分でさえ、この人の授業がほとんど分からない。自分の人生で、初めて本物の天才に出会った瞬間である。勉強であれば、努力すればある程度できると思い込んでいた自分にとって、どんなに頑張っても勝てない人がいるという挫折を得る。この気持ちは今でも心に深く刻み込まれている。
 現役の時には手の届かなかったTK大学 (現在は別の名称になっている)を受けようと、更に勉強に専念するしていたが、壁は相当高かった。自元の有名N大学に切り替える事も視野に入れていたが、上京したい気持ちが強かった自分は、現役時代に落ちたY大学を再受験し、合格することになる。

大学生編

 特に将来を考えていなかった自分は、有名大学&就職に有利とされるY大学理系学部に入学した。親元から離れ、2年間の寮生活と2年間の下宿生活を送ることになる。彼女が欲しいという欲望や、異性と遊んだりしたいという欲が一切なかった。大学2年生の頃、東大王やクイズノックと言ったクイズ文化が流行りだした。勉強が好きになっていた自分は、当然クイズにもはまってしまう。大学の授業やレポートが忙しかったのにも加え、バイトもせずに日々知識を仕入れる勉強に明け暮れていた。
 入学した学部は女性が少なく、学部生180人に対して女性5人と圧倒的に男社会であった。
 勉強・実験レポート・クイズと、女性との出会いがほとんどないまま卒業を迎えた。短期バイトをして新しい女性と出会う機会はあったものの、彼女が欲しいという欲がそもそもなかった自分にとっては関係のない事に思えた。
 大学生活を過ごすうちに、段々と失声症の症状が消えていった。本当に理由が分からないが、今では完治している。
 大学4年の頃、K研究室に配属される。しかし、教授がかなり気難しい性格であった事、選んだ研究が全く意味不明な物であったこと、浪人時代に手の届かなかったTK大に挑戦してみたい学歴コンプを発症していた事等、様々な理由からTK大を受験する。
 そして、TK大学院の合格を果たす。

大学院編

 大学院でも、大学と変わらず毎日勉強をする日々を送っていた。大学院2年生 (当時25歳)のとき、その後の価値観に大きな影響を与える2つの事を経験することになる。就職活動と海外旅行である。

就職活動

 大学・大学院とただ何となく過ごしていた自分は心のどこかで「有名大学に通っているのだから余裕だろう」と就職をかなり見くびっていた。しかし、現実は甘くない事をまじまじと叩きつけられた。元から人前で発表をする事が得意ではなかったため、面接でド緊張してしまい、自分の経験をうまく話せなかった。
 しかも、普通は大学院1年の7月からインターンなどの就職活動を行うのに対して、自分は大学院2年になる直前の2月から始めていた。普通であれば就職活動が終盤に向かっている時期で、自分だけ就職活動を初めている事になった。結果、就職活動でかなり苦労することになる。
 自分の現状を見かねた友人のO君が自分に対し、「面接は要領よく切り抜けられる人が有利だよ。君は話すのが上手くないし、その場で考えていたら話す事は無理だと思うよ?面接は自己分析。まずはこのA4用紙に自分の人生を書いて振り返ってみて。その次に面接でよく聞かれるであろう質問の答えを予め用意しておくんだ」とアドバイスをしてくれた。この子とは、大学を卒業した今でもLINEやSNSで連絡を取り合うくらい仲の良い関係を築かせてもらっている。O君からのアドバイスはかなり有効で、面接を重ねるうちに言いたいことがスルスルと言えるようになっていった。
 しかし、大学・大学院と無駄にやりたいことも見つけずだらだらと時間だけ過ごしてきたせいで、「社会人生活を通して自分が本当にやりたいこと」を見つけ出せないまま就職を行ってしまっていた。大学時代の分野が向いているだろうと思い、プログラミングを行える会社から何とか内定を1社もらうことが出来た。
 だが、納得がいかない。「これは本当に自分がやりたい事なのだろうか?」「他の人が大手企業に就職している中、自分だけがぱっとしない会社で年収も見る限り良くなく、惨めな気持ちだ」と感じ、大学院2年生の5月から面接を再始動することにする。勉強をする事しか取り柄が無く、選考を選んでいた自分にとって、かなり選択肢が限られたものになっていた。
 自分の興味が惹かれる仕事を調べていったところ「ネットワーク・エンジニア」という仕事を見つける。調べていくうちに俄然と興味がわいていった。また、偶然にもこれを仕事にしている方のSNSからDMを頂き、直接お会いして話を聞く機会を設けていただいた。話を聞くうちにますますこの仕事に興味が出てくるようになり、6月から再度就職活動を再開することに決めた。
 O君からのアドバイスのおかげで、段々と面接慣れしていったのだが、ほとんどの企業は既に募集を締め切っており、志望とする職種の会社に中々内定をもらう事が出来ない。。。。「周りは第一志望の会社に就職しているのに、俺だけなんでこんなことを、、」「どうしてもっと早く就職活動を始めなかったんだ、、、」と感じていた。まさに、スラムダンクの三井が感じた「なぜ俺はあんな無駄な時間を。。。」という状況だった。
 就職が上手くいかず、「自分の将来についてもっと早く考えればよかった。。。」「ここまで育ててくれた両親に申し訳ない」と次第に思うようになっていった。
 研究室からの帰り道、自転車に乗っているだけで涙が出る。自宅に帰ってふとした瞬間に嘔吐間に襲われる。何もしたくない、今すぐ就職を終わらせたい、、、完全に就職鬱になっていた。病院に行くと見事うつ病と診断され、薬を飲むようになった。薬を飲んでいる内は症状が緩和していたが、根本的な解決には至ってない。
 25年間を無駄に生きてきた自分にとって、ここまで心を砕かれた挫折経験は初めてだった。何度も何度も涙を流しながら面接に向かい続けていた9月、ようやく自分の希望とする職種、今の会社に就職する事が出来たのである。O君を初め周りはとても喜んでくれた。やっと就職が終わる、ようやく解放された、とかなり安堵した。入社した創業間もなく、猫の手も借りたいほど人を欲していたこともあり、かなり運が良かったのもあると思う。 

人生初の海外旅行

 教授の方針で『大学院時代に必ず、1人で海外に学会発表に行く事』を課せられていた。海外はもちろん、国内ですら一人旅をしたことが無い自分にとって、本当に恐怖でしかなかった。イタリアに行く事になったが

  • 一人で海外に行く事が不安

  • 何事もなく無事帰ってこれるだろうか?

  • 現地でトラブルに遭遇したらどうしよう

等、頭の中を恐怖が支配していた。出発前日、海外旅行に行ったことのある友人「本当に不安なんだけど、、、」「大丈夫かな、、」「今メンタルが相当ヤバい」等のメンヘラLINEを送った事を今でも覚えている。出発当日、ついにこの時が来てしまったという状況でビクビクしながら飛行機に乗った。猛獣を前にした小動物の気持ちで足を震わせながら登場し、「飛行機が墜落して自分はここで死んでしまうのではないか」と飛行機にしがみ付いていた。飛行機が離陸をし、トランジットを含めた19時間にもわたる長旅が始まった。いざイタリアに着いたとたん、自分の心の不安が一切晴れ渡っていた。「今まで不安に感じていたことがあり得ない、むしろ、何これ、、、めちゃくちゃ楽しい!!!」と心から感じていた。異国の土地、日本では見たことのない建物、自分一人で好きな場所をめぐることが出来る、この瞬間から海外旅行の虜になってしまった。海外発表を見聞きし、自分の学会発表を無事行うことが出来た。また、海外発表の時期は大学院2年生の6月と、ちょうど就職難の時期と被っており、気持ち的にかなり滅入っていた。その時に見たカプリ島/青の洞窟の美しさは今でも忘れていない。「ナポリを見てから死ね」という諺になるのは当然だと思うほど、本当に本当に心から綺麗な場所だった。

人生の学び

就職活動/海外旅行を通して、自分は次の事を学んだ。

  • 将来の事を考え、やるべきことは早めにやる事

  • 自分は凡人なので、事前準備をしっかりとする事。どんなに容量が悪くても、経験を積めば自分はやればできる

  • 自分が経験したことないのは最初はめちゃくちゃ怖い。だけど、怖がってないで一歩踏み出してみる事。意外と何とかなるし、楽しくなる

  • 自分はかなり運がいい。特に、人の運に関しては誰にも負けないくらい強いと思っている (Y君、失声症になってもいじめたり見捨てなかったクラスメイト、O君等々)

社会人編

 就職で失敗を経験した自分は、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓い、自分で決めた仕事に関する難関資格を取得する事に専念した。自分には何も無いと思いこみ、土日平日を含めて毎日がむしゃらに勉強をしていた。
 話はそれるが、社会人生活で公開している事が1つだけある。それは、当時女性の先輩から「セフレを紹介しようか?」と言われて断ってしまったことである。資格勉強で余裕がなくなっていてた自分にとっては、女よりも勉強を優先してしまった。今になって振り返ってみると、将来の事についてあまり学習していないと思う。その女性の先輩は転職し、今では疎遠になってしまっている。

現在

 大学院での経験を通して、仕事に関して将来の決心が固まった。しかし、「恋愛」という分野において、自分の経験が圧倒的に足りていないと自覚する事件が2つ起こる。

  1. 同級生の女の子(Hちゃん)とデートした事

  2. Mちゃんが結婚した事

 29歳を控えた2023年末、結婚願望が唐突に沸々と湧いてきた。自分もそろそろ結婚をする時期だなと思い始めてきたのだ。そんな12月末、高校同級生の集まりが開かれることになった。そこでHちゃんと10年ぶりに再会することになる。高校当時から可愛い女の子だと思っていたが、恋愛感情は特に抱いていなかった。失声症の件もあり、自分から深く関わろうとしてなかったのである。この記事を書いているときに感じたのだが、今でもMちゃんのことが好きだったんだと思う。
 Hちゃんと話をすると、"今現在東京に住んでいる事"、"彼氏は現在おらず、将来は結婚を考えている事"と言われ、東京でも遊ぼうという話になった。結婚願望が出てきた自分にとって、そろそろ恋愛にも力を入れていかないとなと思い、思い切ってデートに誘ってみた。今まで同級生の女の子とデートをしたことが無かった自分にとって、かなり勇気を振り絞った行動だった。Hちゃんは遊ぶことをOKしてくれた。
 2024年2月上旬、Hちゃんと遊ぶことになった。この文章を書いている3週間前である。初めて女性と2人きりで遊ぶことになり、かなりのポンコツを見せてしまった。女性をリードできない、何を話していいか分からない等、向こうにかなり気を使わせてしまった。ここにきて今まで女性経験を積んでいないことが響いてきた。
 デートをしている時、隣から幸せそうな鐘の音が聞こえてきた。ふと見ると、そこでは結婚式が開かれ、新郎新婦、親族が幸せそうな顔をしていた。すると、突然Hちゃんから「そういえば、君の知っている子なんだけど、Mちゃんはこの前結婚したよ」と言われた。Mちゃんには何人か彼氏がいたことも知っていたし、思いを伝えられなかった過去の自分がダメだ、多分結婚してるんだろうな、と恋心を諦め、どこかで忘れ去っていたものだと思っていた。
 しかし、Hちゃんから改めて言われた時、心にグサッとくるものがあった。「頭では分かってるけど心がついていかない」とはまさにこのことを言うのだと、理解した。言われた時は「へぇ~!そうなんだ。とてもめでたいね!」と平静を取り繕っていたが、内心はかなり荒れていた。どうしようもないやるせなさと、正しいアプローチをして思いを伝えていれば変わっていたのだろうか、本当に自分の気持ちとは本当に決別出来ていたのだろうかという後悔等、いろんな感情がないごちゃまぜになっていた。
 そのときだ。「もう自分の気持ちはちゃんと伝えよう。たとえダメだったとしても、言わなかったら一生後悔し続ける」と思うようになった。29歳を間近に控えた、めちゃくちゃ遅い決心だった。
 再会してからHちゃんと話をするうち、段々とHちゃんのことが気になっていった。恋愛感情は無かったが、とても性格の良い子であり、結婚するならHちゃんが良いと心から思い始めていた。何とかHちゃんと2回目に会う約束を付けた。2回目のデートの時、「彼氏はいらないの?」と訊いてみると、「今は彼氏いらない。私は彼氏の気持ちに応えられない」とやんわりと「君は彼氏に出来ない」と言われた。
 衝撃的だった。家に帰ってから、かなり涙を流した。自分の過去を振り返ってみると

  • 今まで恋愛に対して真剣に向き合って来なかったから、女の子を振り向かせる方法が分からない

  • 周りはみんな結婚をしていて、自分も早く結婚したい

  • 今まで恋愛をしてこなかった自分が悔しい

  • そもそも、どうやって恋愛をすればいいのだろうか

  • 自分を変えたい

決意

 涙を十分に流し終わった頃、こんな感情を覚えた。
 結婚相談所に行くのも良いが、自分で何もしていないのに、行った所で良い成果なんて得られるわけがない。そもそも、本当にそれでいいのだろうか???結婚したい人を募っている元に初めから行ったとして、「本当に心から結婚できる人と出会えるのだろうか?」「いい人はいるのだろうか?」と。
 だったら、この1年、真剣に恋愛に向き合ってみよう。それでもダメだったなら諦めて結婚相談所に行く。初めから無理と諦めてやるのは自分にふさわしくない。
 心からそう思っている。 

最後に

 以上が、自分が非モテになるきっかけとなった出来事、そしてfumikiさんの恋愛コンサルを受けようと思った理由である。
 今まで恋愛経験のない自分にとって、根本から非モテを解消するには荒療治しかない。他の人が約30年間分の経験があるのに対し、自分は0である。どこかで真剣になるしかない。
 「将来の事を考え、やるべきことは早めにやる事」という価値観に突き動かされる事になる。もしここで、恋愛に対して真剣に向き合わなかったら、1年後、3年後、恐らく40歳の自分が後悔してると思う。「なぜ30代で真剣にならなかったんだ!」「まだ10年以上あったじゃないか」「なんで諦めてしまったんだ!」と。
 将来を振り返った時、ここが人生第2のターニングポイントになると思う。今まで恋愛をしてこなかった分、就活活動と同じくめちゃくちゃメンタルを病むと思う。「どうして自分は出来ないんだ」「何を話していいか分からない」「うまく女の子をリードすることが出来ない」等、初め心が何度も何度も折れそうになると思う。だけど、自分はこの言葉を心に深く刻んで行動していきたい。

自分の人生は自分で切り開く

 誰も自分の人生を保証してくれない。ここでモテを諦めて、結婚しない人生を通すことも出来る。だけど、それだと、人生最後の日に間違いなく後悔すると確信を持って言える。
 自分の人生を改めて初めたいと思う。

ここまで読んでくださった読者の皆様、ありがとうございました。


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