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晴天の霹靂~私の運命~

早いもので、2020年も残すところあと数日。
今年は誰にとっても、「イレギュラー」なことが多発した一年だったかと思いますが、我が身に起こった「青天の霹靂」についてひとつ。

いまから遡ること約3か月。
9月11日、(当時、住んでいた)富山県から北陸新幹線に乗り、東京に向かう新幹線の車内で、私はひとつの決意をした。
「この先、どんな不幸さえも、我が運命として受け止めます」と。

世の中は「幸せになりたい症候群」で、誰もが「幸せになりたい」「私の幸せの青い鳥はどこ?」 そう探し、追い求めているのが現代だと思う。私はこれまで思想的に影響を受けてきた数々の本を読みながら、「幸せになりたい症候群を脱却しよう」と決めた。そうすることで、自分の「運命」に体当たりできる、幸も不幸も受け止めることで、本当の意味で自分の「運命」が動き始める、そう感じたからだ。運命は「いいところ取り」できない。だから「不幸」に思えることも、全力で受け止めようと決意した。それがたまたま9月11日、新幹線の車中だった。その日の午後、東京に着いたその足で、築地にある国立がん研究センターへ行った。姉の付き添いで検査結果を聞くためだった。

6月に、背中に「おでき」のような「しこり」ができた、と姉から聞いていた。私も経験があるのだけど、「粉瘤」(ふんりゅう)といって肩や背中、耳たぶ等にできる脂肪のかたまりみたいなものだから、大丈夫、そう思っていた。

その「粉瘤」と思っていた「しこり」を除去するため、とあるクリニックに通った姉は、採取した皮膚から異型の細胞が見つかり、すぐにがんの権威であるがん研を紹介された。9月11日、私が上京したのは、その結果を聞きにいくためだった。

姉によると、当初、「皮膚にできた何か悪性のもの」と皮膚科のドクターに診察を受けたが、9月11日は血液科に回された。神妙な顔をしたドクターから、「血液にできたがん」と告知を受け、正式な名称を教えられた。「芽球性性質細胞様樹状細胞腫瘍」。初めて聞く小難しい病名で、覚えられずノートにメモを取った。まるで漢文を眺めているような気分だ。白血病の一種なのだけど、正確には白血病とは違うらしい。日本におけるがん治療の権威である天下の「がん研」でも非常にレアな病という。主治医の先生はまだ若く、色白で品の良い、平安時代でいえば、やんごとなき身分のお方のような(もちろん、頭の良さそうな)ドクターで、感情を込めず淡々と説明を続けた。先生のおっしゃることを一言も聞き逃さないよう、メモを取り続けた。

最後に先生は「治療をしなかったら年内の年越しは難しいでしょう」と冷静に言った。


今すぐ入院が必要で、すぐに抗がん剤治療が始まり、その先に骨髄移植を行うこと。抗がん剤と骨髄移植はセットで行うことが「この先も生きる」ための前提であること。感染症や合併症のリスク、抗がん剤治療と骨髄移植がうまく行った後も、その先、2~3年治療が続くことなど、説明を受けた。

時計の歯車がキリキリと音をたてて周り始めるように、私の運命が、ゴオゴオと大地が割れるような音をして動き始めたのを感じた。

今日、12月29日を私は姉と共に自宅で迎えている。
数回にわたる抗がん剤治療を経て、思いがけない「幸いなハプニング」が続き、一時退院して、新年も自宅で迎えることができる。

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