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スタバ派と、アンチ・スタバ派。

富山に住んでいた時も東京に戻った今も、若者のトレンドはスタバだったけれど、どうも昔から私はスタバよりタリーズ派なのです。

ほにゃららフラペチーノ、ってまったく興味がないので、
私の望みはシンプルに、コーヒーやラテが自分好みの美味しさであること。
その点、タリーズはその望みを満たしてくれる。
私の貧相な語彙ではコーヒーのうんちくを語れないのが残念だけど、タリーズの味が好きなのだ。
落ち着いたシックな内装もよろし。

たまに、気の置けない人との会話で「スタバよりタリーズ派なんですよ」なんてポロッと口走って、相手も「私もですよ!」なんて言われると、もう心の中で密かに「もしや、いろんな好みが似てるかも」なんてニンマリしまうのです。

思えばいつも、メジャーよりマイナーをひたすら邁進してきた
我が人生(嗚呼!哀しいかな!)
王道よりは外道。
好みも、選ぶ物も(はて、選ぶ男はどうだろう?)。

戦争という壮大なテーマを持ち出して、甚だ恐縮ですが、
いつぞやのヒトラーじゃないけれど、圧倒的なスタバ派の前に、タリーズ派の声はかき消されてしまう。
こうして人は大多数の声に巻かれて、長い物に巻かれてしまうのか(否!)。
ヒトラーのドキュメンタリーを見ていて教訓になったのは、自分の国のリーダーを選ぶ、ということの民衆の責任の重さだ。

戦後の今だから、あの時の戦争を「間違っていた」と批判できるけれど、
当時の渦中に自分がいたら、ただただ翻弄されるだけの小さな、
いち民衆だったはず。
戦争反対を訴えて、特高にアカ狩りされてもヨシとするほどの、高い志も勇気も、私には持ちあわせていなかっただろうとぼんやりと思う。


義理を通す、正義を通す、というけれど、
難しいのは、あなたにとっての「正義」と私の「正義」は、
必ずしも一致しない、ということ。
人の数ほど、義理、正義の数もあるのではないかと。


今、冷静に見れば、「どう見えても負け戦」だった対アメリカ戦に突入する時の日本、その時の戦争反対派=アンチ少数派を思うと、現代のスタバ派とアンチ・スタバ派にもささやかながら共通するような気がして。
(思考がぶっ飛びすぎてかたじけない)






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