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レモンからーの陽だまり(#シロクマ文芸部)

 『レモンからーの陽だまり』略して『レモか』は、あの頃のわたしにとって、まさに陽だまりのような場所で、そこにはいつもオババがいた。

 蝉の声はとっくに抑揚のあるツクツクボウシに変わっていたけれど。陽ざしはまだ肌を直線で刺し、風すら吹くのを億劫がっていた。夏休みもあと三日という昼下がりだった。
 二学期が始まると思うだけで、ため息がいたずらにこぼれ落ちて堆積し、その澱みの中で身じろぎもできずにいた。世界は模糊とした灰白色に広がる永遠の曇り空で、濛気もうきが霧のごとく立ち込める中を、あてどなく、ただあてどなく歩き続けるしかないのだと思っていた。

 今なら理解できる。
 母子家庭のどうしようもない貧しさと母のやるせなさを。
 けど、わたしは大人になりきれない半端な中学一年生で、さりとて素直な子どもでいることもできず、甘え方も寂しさのやり過ごし方もわからず、霧の中を迷子のごとくさまよっていた。
 きゅっと絞られた酸っぱいひとしずくを胸に抱え、途方にくれていた。
 
 母が帰って来なくなった。
 わたしの胸がふくらみはじめたころからだったと思う。初めは一晩。次は二晩、としだいに長さと頻度が増えていった。
 台所と六畳二間きりの古い西向きのアパートの部屋で熱帯夜に横たわり、覚醒と半覚醒のあいだをうつらうつらとさまよう。部屋には酸っぱい匂いがこもっていた。目覚めると母はたいてい仕事に出ていて、台所のテーブルの上に千円札が置かれている。その日、母が帰ってくるか、あるいは幾日帰らないかわからないから、お金は慎重に使う。たまに二枚置かれていることがあって、ラッキーと喜ぶ空元気も虚しく、たちまち寂しさが胸をふさぐ。二枚あるということは、二晩以上帰らないということを意味していた。

 あの朝も、熱帯夜にうなされて目覚めると、テーブルに千円札が二枚置かれていた。
 ああ、またか、とぼんやりと思った。
 パジャマ代わりのTシャツは寝汗で湿っていたが、着替える気にもなれない。下だけ白いデニムの短パンにのろのろと履き替えた。部屋にいると、嫌でも母の不在がしみる。千円札を丁寧に畳み、いっぺんに失くしてしまわないよう、左右のポケットに一枚ずつ分けて押し込み鍵も掛けず外に出た。
 朝から照りつける陽ざしをよけて歩いた。分かれ道に行き当たると、日陰を選ぶ。それだけをルールに、太陽から目を背け足もとの影を踏むようにして、あてもなく歩き続けた。
 どこをどう曲がったのか、もはやわからなかった。
 アスファルトの地面に「いらっしゃい」と書かれたベニヤ板が立て掛けられていた。小さく「おかえりなさい」と付け足されている。 
 ベニヤ板に沿って視線をのぼらせると、古い枕木のような(厚さは枕木より、うんと薄いけれど)焦げ茶色の煤けた板がコンクリートの塀に掛けられていて、あざやかな黄色いペンキで『レモンからーの陽だまり』と落書きみたいな文字が踊っていた。門扉はなかった。
 レモンから……の陽だまり? 
 首を傾げていると、
「今朝も暑いわね、いらっしゃい」と、まあるい声がした。
 強い晩夏の陽を背に小柄な人が立っていた。逆光で輪郭だけ浮かび上がった顔は黒く透けてよく見えない。
 反射的に逃げ出そうとしてふらついた。
 とっさに腕をつかまれ、反動でその人にもたれかかった。
 目の前がまっ白になり、抱きかかえられるようにして膝をついた。
「おかえりなさい」
 耳もとで声がした。棒きれみたいになっているわたしの背を撫で、何度も何度も「おかえり」と耳もとでささやく。
 わたしは顎をその人の肩に預け、されるがままになっていた。

 ――おかえり。
 ぽろっと酸っぱい何かが目尻からこぼれた。喉の深奥から熱い塊がせり上がって来る。
 ――おかえり。
 わたしは、めったに泣かない。泣いても何も変わらないことを知ってる。
 ――おかえり。
 ぐうっと唸ったのが最後だった。
 初めて声をあげてむせび泣いた。記憶にある限り、人前で泣いたことなどなかった。決壊した嗚咽は止め方がわからず、女の肩はわたしの涙と洟水に汚れまみれた。
 おかえり。
 わたしは、そのひと言をずっとずっと欲しがっていたのだ。  
 それがオババとの出会いだった。

「熱中症の手前かねえ。ほら、おいで」
 気づくと、軒の深い平屋の縁側に腰かけていた。家の造りは日本家屋そのものなのに、外壁は看板の文字と同じあざやかな黄色に塗装されていた。
「これでもお飲み」
 涙のかすがこびりつき重くなった瞼をあけると、グラスを二つ乗せた盆がぬっと差し出された。手渡された水のグラスをひと息に飲み干すと、かすかにレモンの味がした。
「ごちそうさま」と礼をいい、おずおずと「……おばさん」と付け足した。
「オババでいいよ」と隣に腰かけた女は、グラスの氷を回しながら言う。
 いくらなんでも失礼な気がして黙り込むと、
「オババって呼んでもらってんだよ、みんなに」
 にっと笑い、ほら、これで顔を拭きなさい、と湯気のあがった蒸しタオルを渡された。少し熱かったけれど、目の上にあてると瞼の内側から張り詰めた何かがゆるんでいく。また、涙があふれそうになって、しばらくタオルをあてたままでいた。
「あそこに木があるだろ」
 広くはない庭の中ほどにこんもりと葉を茂らせた常緑樹が一本あった。
「あれはレモンの木。まだ緑だけど、ことしもよく実ってる」
 根もと近くから枝を広げている木には、ずんぐりとした濃い緑の球形が葉陰にいくつも見え隠れしていた。
「だから、『レモンからの陽だまり』なの?」
 表の看板を思い出して尋ねた。
「レモンからの陽だまりじゃないよ。『レモンからー』の陽だまりさ。レモン色の陽だまりってことだね」
 いい名だろ? とオババはにっと笑う。『から』じゃなくて『カラー』だったのか。
「なんで、カラーがひらがな?」
「『か』をカタカナにすると漢字の力とまぎらわしいだろ」
 日本語の文字は難しいねえ、とオババは、また、からんとグラスの氷を鳴らしながら言う。ま、どっちだっていいんだけどね。
「ここはカフェ?」
「レモン水だけのカフェなんてないよ」
 じゃあ、あの看板はいったい、と怪訝な顔をすると
「そうさね。あんたみたいな子が、いつでも来てもいい場所って目印」
「……」
 親のいない子どもや、育児放棄された子が児童養護施設に引き取られることは知っている。ここはそういう場所か、と悟った瞬間にわたしは立ち上がった。
 ――わたしは、まだお母さんに捨てられてない。
「ここは養護施設じゃない。あたしの家だよ」
 勘違いしてるみたいだね、とオババが庭に目をやる。
 立ち上がったまま動けずにいるわたしに、まあ、お座りよ、とオババが見上げる。
「顔色も良くなったから帰ってもいいし、好きなだけいてもいい。みんなレモン水を飲みに来る。それだけ。飲んだらすぐに帰る子もいるし、そこの本を読む子もいる。昼寝をしてく子もいれば、大人だって来る。あたしはレモン水を出すだけだよ」
 背後の座敷を振り返ると、左右の壁には天井まで届く本棚があり、ぎっしりと本が並んでいた。絵本もあれば、図鑑や全集もあるようだ。
「あんた、寂しいんじゃないかい?」
 えっ、とわたしは口ごもる。
「あたしもね、寂しかったんだよ」
 オババはレモンの木を見ながらいう。
 五年前に夫が死んじまって、一人この家に残されて。初めはそうでもなかったけどね。でもさ。寂しさって積もっていくんだよ。ちょっとずつね。
 オババはレモンの木を見つめたままだ。
 夫と植えたレモンの木は優秀でね。毎年、たわわに実るんだよ。近所に配って歩いても、そのときだけだろ、立ち話をするのは。寂しい毎日は埋まらない。あるとき気づいたのさ。寂しくなったら来れる場所にすればいいかな、てね。だから、遠慮することはない。あたしも寂しさを埋めてもらうんだから。
「あんたが寂しい理由は聞かない」
 オババがにっと微笑み、また、からんと氷を鳴らす。
「ここでレモン水を飲みたくなったら、いつでも来ればいい」 

 男の子が息を切らせて走って来た。縁側に靴を脱ぎ捨てる。
「オババぁ、レモン水ちょうだい!」
「はいよ」

 
 わたしは毎日放課後、レモン水を飲みながら夕暮れまで『レモか』で過ごした。冬になるとレモンの収穫も手伝った。テスト勉強も『レモか』の座敷でした。いつも誰かがいてざわざわしていたし、小競り合いもしょっちゅうあったけれど。行き場のない寂しさを積もらせることはなくなった。
 あの頃、母が帰って来なかった理由を今では知っている。
 交際相手の男の下卑た目から娘を守ろうとしてくれていたのだと。そんな男でも切り捨てられなかった母の哀しさも。
 しかたないね、とオババはつぶやいた。
 みんな酸っぱい寂しさをちょびっとずつ抱えてるんだよ。
 一人で立てるようにおなり、と言ったオババが旅立って七年。
 ことしもレモンは青い果実をたわわにつけている。

<了>

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ええーっと。
大幅に締め切りをオーバーしましたが、一応、提出いたします。
小牧部長様、よろしくお願いいたします。


サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡