早朝のゆりかもめに揺られて聴く落語「芝浜」
今朝の4時半、どうにも、どうがんばっても寝付けなくなってしまい、イヤホンで落語を聴きながら散歩に出かけることにした。
今は夏。季節は全然違うけれど五街道雲助師匠の「芝浜」を流して、いつもの一番長い散歩コースを進む。歩き疲れたら眠くもなるだろうと思ったけど、むしろ頭が冴えてきてしまった。
季節は全然違うけれど、ちょうど夜が明けそうな時間帯。いっそのこと、このまま「芝浜」あたりまで足をのばしてみようか、という気になった。お酒を飲んじゃったから、ドライブはできない。ギリギリ始発が動き始める時間だから、散歩を中断して電車に乗ってみた。移動しながらも噺は進む。
降りるかどうかは考えず、とりあえず豊洲まで行って、ゆりかもめに乗ってみた。ゆりかもめは最前列の席がお気に入り。日が昇って少しずつ明るくなって行く景色を眺めながら、ただ落語に耳を傾ける。
今、目の前に広がる景色は、落語「芝浜」を聴いて思い描く江戸の静かな街並み、シーンとした朝方の景色とは、当たり前だけど全然違う。にょきにょき生える高層マンションに、赤いキリンのような大きいクレーンが並ぶ。巨大すぎてサイズ感がわからない倉庫が並ぶ。それでも芝のあたりに着いたころには、ちょっと目を閉じてこのあたりの浜辺に財布の紐が揺れているのを想像してみた。
芝浜が好きなのは、しょうがない亭主に愛想を尽かさないで、機転を効かせて見守る女房のあたたかさ。どんな不条理なことがあったとしたって、芝浜のおっかぁぐらいドーンと構えていられる人になりたいと思う。それは落語にハマり始めた16歳の頃から今も変わっていない。でも、今日、今の私は、あの女房には程遠い。器はちっちゃくてすぐに感情が出てしまって格好悪い。
芝の景色は時代とともに変わっても、人間の性質なんてずっと変わらないんだろうな。だとしたら、フィクションだとしたってあの女房みたいに寛大に、亭主が変わろうとすることを諦めずに根気強く期待しつづけるみたいなことを、私が目指すのだって無理じゃないのかもしれない。
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