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命のバトン

令和4年9月1日、午後2時5分祖父を見送りました。
最後は老衰で入院していましたが、コロナの影響で、1親等しか面会できず、娘(私の叔母)に見守られながらの旅立ちとなりました。

私の中での祖父はいつもニコニコ。
優しくて、でもすごく真面目で、小さな子どもが大好き。
祖母とはいつも仲良しで、こんな夫婦になりたいなと思っていました。

祖父は長いこと山行きをしていたので、この辺りの山に詳しく、地図も読めるので、この谷の名前は丸々で、ここからこういくと、こっちへいけるなど聞いていました。
私は山歩きが好きなので、祖父から聞き取りしては、山を歩きまくっていました。

そんな祖父、戦時中、乗ろうとしていた汽車が満車で乗れず、次のに乗ったそうですが、その汽車は米軍の攻撃にあい、乗客はほぼ亡くなったそうです。
もし乗れていたら、、、私はいませんね。

あと、祖父は姉弟8人なのですが、5番目の長男として生まれたので、もし、もう少し早く生まれていたら、出征していたでしょう。祖父の同期生には志願兵になるひともいたそうですが、母親(私の曾祖母)が長男やから、赤紙が来るまでは待った方がいい、志願までしていくことはないと言ったそうです。

人の命は本当に神仏にいかされているのだと思いました。

私は子どもを生むのがとても大変でしたが、人を見送るのもとても大変だと感じました。

私が学生に戻ろうと思ったきっかけも祖父でした。
祖父の違和感を感じたのはもう10年ほど前。

祖父母と一緒にランチをしているときに、同じ言葉を録音テープのように繰り返すことにアレっと感じました。
それを親戚のおばさんに聞いてみたら、グランドゴルフの計算ができていないと。

あー、これは専門家に診断してもらわないといけないと思い、父母に報告して、神経内科の受診に同行しました。

それから自分が少しおかしいということを回りの人に知られたくなくて、家に引きこもってしまった祖父。声をかけるとニコニコしてはいましたが、しんどいのか表情がなくなっていきました。
しばらくすると感情の制御ができなくなって、すごく暴力的になったこともありました。

祖父の求めている暮らし、そして、同居する祖母の求めている暮らし、私を含めたほかの家族の思い。

みんなの思いに折り合いをつけながら、なんとかその後も生まれた家で暮らしていましたが、もう限界というところで、入所施設へ。

その間、私の母は介護疲れで、顔が変わってしまいました、、、。

数年前からは、熱が出ては入院退院の繰り返し。
祖父が入院したと聞いては「もうあかんかも」といっては、なぜか回復して戻ってきてました。みんなで不死鳥やなと言っておりました。

祖父の姉から「人間は80過ぎが一番しんどい。90すぎたらまた楽になる」とは聞いていましたが、90歳すぎてからは起きているのか寝ているのかよくわからない状態でした。

祖父の母は94歳で天へ。
祖父の姉たちは100歳まで生きられ、長寿な家系のようです。

今頃、4人のねーやん(姉たち)、すぐしたの弟と再会してるやろか?

あ、49日まではまだこの辺のうろうろされてるんやね?



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