憎しみの哲学:なぜ愛は憎しみに変わるのか?
あの人を憎むのはなぜだろうか。いままで愛していたし、いまなお愛しているのに。愛と憎しみには深いつながりがあるように思われる。いままで深く愛していた人ほど、深く憎むことができる。ここで、そのつながりについて考えたい。
まずは愛から考えよう。
愛するとは相手が幸福であることによって幸福になるということだ。とベルクソン哲学研究者であり、人生の意味について考察する村山達也は述べている。そして、彼によれば、相互的な愛とは、わたしがあなたの幸福によって幸福になっていることをあなたが幸福に思う反響する愛なのだ——つまり、愛の反響説を提示している。
村山の愛の特徴づけはわたしにとって説得的だった。わたしは愛するとき、その幸福によって幸福になり、不幸によって不幸になる。そこで思いついた。憎むこともまた、憎む対象の幸福と不幸とわたしの幸福と不幸が関係し合っているのではないか。
憎むとは、相手が不幸になることで自分が幸福になるような、相手が幸福になることで自分が不幸になるような、ねじれた愛かもしれない。
もし愛が相手の幸福によって自らが幸福になり、相手の不幸によって自分も不幸になる真っ直ぐな関係なのだとすれば。憎しみはこの関係がねじれている。
なら、愛はいつねじれるのか。
憎しみとは、自分が不幸であるときに相手が不幸に思ってくれないという、相手への愛の反響の強要が起こっているようにも思われる。相手が幸福になっているまさにその理由がわたしの不幸の理由であり、相手はわたしの不幸に感応してくれない。ゆえに、愛の反響が強いほど、強い憎しみへと転化しうる。
それまで相手の幸福に感応して自分も幸福になっていたのに、鋭いディスコードが起こって、相手が幸福なのにわたしは幸福に思えず、不幸であり、幸福に不幸が不協和し、強い愛は強い憎しみに変わる。
たとえば、あの人が自分の知らぬ間に自分といるよりも幸福そうに笑っているとき。わたしとの約束を破って楽しそうにしているとき。あの人の幸福の理由はまさにわたしを不幸にさせる。
ならいっそ不幸になってしまえばいい。そうすれば、わたしが不幸であることとあの人が不幸であることが一致して、愛の反響の模造ができるから。
憎しみに至る経路はこんな風になっていると思う。
憎しみを避けたいなら、相手への愛の反響の強要を幾許か手放さなければならない。それは、愛の反響を減じさせることになり、少しさびしくなることである。
これが愛と憎しみの関係を図式的にせよかなり的確に捉えたものにわたしは思える。そして、わたしは自分の憎しみの元凶が相手への愛の反響の強要にあることに気づいて少し嫌な気持ちになっている。
難波優輝(美学者・批評家)
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