絶滅の倫理学
正義は行われよ、たとえ世界が滅びようとも––––Fiat justitia ruat cælum
はじめに
本稿では、わたしが考えている「多元宇宙的絶滅主義」について紹介する。その主張は、「人類は、倫理的責務として、あらゆる宇宙たちの誕生を阻止し、あらゆる知的生命体の誕生を阻止するべきだ」というものだ。一見したところあまりに荒唐無稽であり、わたしも読み手の全員を説得できるとは考えないが、わたしは部分的にせよ真剣にこの多元宇宙的絶滅主義に魅力を感じている。そこで、以下、その素描を行うことで、倫理学研究者、科学哲学者に関心を持って頂ければさいわいである。
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1. 宇宙的絶滅主義
「宇宙的絶滅主義(universal extinctionalism: 以下、UEとする)」は、苦痛の除去による不幸の廃絶を目的として、現在の地球人類の絶滅だけではなく、この宇宙における可能性としてのあらゆる苦痛を感じられる知的生命体の誕生も阻止する。この主義に基づけば、人類は(あるいは知的生命体は)じぶんたちが絶滅する前に、あらゆる知的生命の前兆を察知し、それを宇宙の終わりまで摘み取り続ける「静寂機械(quiet machine)」を開発することが倫理的に至善だと考えられる。
2. 多元宇宙的絶滅主義
とはいえ、多元宇宙論が正しいなら、UEは、じぶんが属する宇宙における静寂と絶滅のみを気にかけており、ほかの宇宙については倫理的関心を持たないという意味で、「宇宙差別(cosmicism)」の誹りを免れえない。人類は、倫理的責務として、あらゆる宇宙たちの誕生を阻止し、あらゆる知的生命体の誕生を阻止する「多元宇宙的絶滅主義(multi-universal extinctionalism: 以下、MUEとする)」をオプションとして考察すべきだと現在わたしは考える。それは、誕生しはじめようとする子ども宇宙たちを捕捉し、その拡張を阻止する多元宇宙的静寂機械の開発を必要とする。
以上のMUEにわたしは魅力を感じている。ゆえに、現行人類の絶滅を目的の一つとしているタイプの「人類的絶滅主義(anthropologic extinctionalism: 以下、AEとする)」には十分にコミットできない(いわゆる「反出生主義(anti-natalism)」が人類的絶滅主義のひとつである)。人類はすみやかに絶滅するのではなく、むしろ、苦痛を取り除きながらも、知の限りを尽くして、多元宇宙を操作/破壊できる領域にまで跳躍する必要があると考える。
3. 反論について
以下五つの想定反論に答える。
3.1. コストの問題
第一に、シンプルに、M/UEは、それを認めるためには支払うべき前提が多すぎるハイコストな主張であり、常識的に認められえない。まず、AEあるいは反出生主義の議論が決定的なものかどうかは明らかではないし、もし、それらが正しいにせよ、宇宙的な絶滅の可能性について考察するなど時間の無駄ではないか。
たしかに、まず、M/UEを認めるためには、AEを受け入れる必要があるかもしれない。そもそもAEの議論が論争のさなかにある以上、MUEの正当性はかなり不安定だろう。
しかし、他方で、AE、M/UEとは、前者のふたつを認めなければ後者を防御できないような関係にはないように思われる。この点については現時点では直観以上のなにも言えない。各反出生主義の関係についての議論が必要である。
また、宇宙的な絶滅は、現在、人類が様々な困難に直面している状況ではあまりに遠く、それについて考察することが滑稽に見えるだろう。しかし、哲学的思考の力は、そこにそもそもないかと思われていた地点に問題を見出す点にあるとわたしは考える。もし、現在は滑稽に見えたとしても、後述するように、それがなぜ滑稽に思えるのかを考察することを介して、現行のわたしたちの倫理的理解についての洞察が得られる。たとえば、環境倫理や動物の権利は当初は重要なものとはみなされていなかったかもしれないが、哲学者たちをはじめとする研究者や活動家がその重要性を見出し、周知させていった。本稿のM/UEがそれらの概念と同程度に重要かどうかはいまだ明らかではないが、しかし、宇宙的な倫理は、人類が思わぬ技術的な能力を手に入れたとき重要になるかもしれない。また、そのようなシンギュラリティが起きないとしても、現行の議論を極端な立場から再考することで、現行の議論の見逃されていた長所、あるいは短所が見つかることはない話ではない。そのため、M/UEについて考察することは時間の無駄ではない。
3.2. 同意の問題
第二に、UEに限っても、可能性として誕生する知的生命体の同意を取ることなしに絶滅を行うことは倫理的に問題があるのではないか。それは、「宇宙的パターナリズム(cosmic paternalism)」の誹りを免れない。さらに、MUEにおいては、宇宙を絶滅させるという、もし可能にしてもそんな権利が人類というひとつの生命体の集合に過ぎないものに与えられているのだろうか。
なるほど、人類がもしUEに合意したとしても、未来の知的生命体がUEに同意するとは限らない。そこで、その都度知的生命体の絶滅の同意をとるかたちで、静寂機械を調整する必要がある。より問題なのは、MUEの場合、それはそもそも宇宙を消滅させようとする主張であり、同意以前に知的生命体の誕生可能性を消去するものである。こうした誕生以前の同意可能性については議論が必要だろう。いずれの種類の絶滅主義についても、あらゆる時間において無時間的に倫理的に正しいと認められたとしても、それぞれの知的生命体の自身による絶滅を望まないという選択を尊重することの方が倫理的に重要だとされるかもしれない。この点については、もしM/UEが正しい場合、確実に宇宙に発生する危害をひとつの知的生命体の集合がパターナリスティックに取り除くことの倫理的正当性についての議論が求められる。
3.3. 無益な争いの問題
第三に、この議論は、AEにコミットする者とM/UEにコミットする者同士のあいだで無益な争いを生むのではないか。いたずらに、宇宙的などというスケールから混ぜかえすことで、現行、まだしも実現可能かもしれないAEあるいは反出生主義の議論を混濁させる事態を引き起こしかねない。
AEにコミットし、(諸)宇宙的絶滅については関知しないとする立場もじゅうぶんありえる。そこうした選択、すなわち、人類がじぶんたちの絶滅を気にかけるか、それとも宇宙全体の絶滅を気にかけるかは人類の問題である。どちらを選択するかは実際に議論され、選択されるだろう。
だが、最終的に現行人類においてはAEが採用されるにせよ、現行人類がよりよい行いをするためのオプションを考えることは無益ではないし、また、人類が絶滅した後の知的生命体に絶滅のオプションを残しておくことは倫理的によいことのように思える。ゆえに、どちらを採用するかは選択されるもので、M/UEが現行人類において採用されなかったとしても、次の知的生命体がM/UEを採用するかもしれないし、彼らによってはじめて静寂機械は実現されるかもしれない。こうした知的生命体の壁を超えた宇宙的な倫理の遂行のために議論を残しておくことは有益であり、M/UEを考察することには意義がある。
3.4. 絶滅以後の不関与
第四に、人類が絶滅したあとのことを気にかける必要はないのではないか。人類は絶滅した後に知的生命体が誕生し、人類と同じように出生の苦しみを味わおうと、そもそも人類は絶滅しているのだから考慮する必要はない。
もしじぶんたちの世代のみの幸福を考え、その後に残される者たちの幸福を考慮しないとすれば、それは倫理的にすぐれた態度とは言えないだろう。宇宙の長さから言えば、人類が絶滅した後もほかの生命体が誕生する可能性はそれほど低いとは言えない。ならば、なぜ人類はじぶんたちだけの絶滅を気にするのだろうか、と問うことはおかしなことにはならないはずだ。もし人類が宇宙全体の幸福についてまじめに考えるなら、人類の絶滅のみならず、宇宙的な絶滅について、そして、M/UEについて考慮することは荒唐無稽ではない。
3.5. 静寂機械の不可能性
第五に、そもそも静寂機械の発明など不可能ではないか。そのため、静寂機械を考えること自体荒唐無稽で無意味である。
この点に関しては、現在のわたしの議論が思弁的なレベルにとどまることを完全に認める。現在、静寂機械の可能性はまったくない。とはいえ、もし静寂機械が可能になったら、という思考実験を行うことで、、現行のAEあるいは反出生主義が、実は、宇宙的絶滅主義や多元宇宙的絶滅主義といった様々なレベルでの絶滅主義のひとつのバージョンであることが明らかになり、AEあるいは反出生主義の妥当性について、よりひろい視野から検討できるようになる。そのため、現在ではM/UEの実行可能性は無に等しいが、未来の議論のために、そして、現行の反出生主義の議論のためには静寂機械は有益な思考実験である。
4. 絶滅の倫理
M/UEにひとはなぜコミットするのだろうか。わたしは、人類、あるいは人類がバトンをわたす知的生命体が、無限に続くかもしれない宇宙たちの営みに対して、そして、自動的に誕生してしまう生命たちの繰り返しに対して、その生命的な意志によって拒否を突きつける可能性に、生命そのものの魅力を感じる。生命は、宇宙と苦痛の奴隷ではなく、その選び取る意志によって自動的な宇宙を否定する。
完全にコミットしているのかと言われると自信がないが、わたしは、多元宇宙的絶滅主義に大いに可能性を感じている。この一見したところクレイジーで、よく考えてもやはりクレイジーな諸宇宙規模の倫理的主張を、クレイジーな主張に関心のあるクレバーな倫理学者や科学哲学者と一緒に考えてみたい。
難波優輝
引用例:難波優輝. 2019. 「絶滅の倫理学」『Lichtung Criticism’』