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(3129文字)

光男は夢を見ていた。
粗末な薄い布団に包まり、彼は幸せな夢を貪る・・。

目の前のテーブルには見た事の無いような豪華なご馳走が並び、
それを片っ端から延々と食べ続けていた・・。

若い女性達が、光男の好きな料理ばかりを尽きる事なく運んで来る。
しかし何故か、いくら食べても腹は膨れない・・。

やがて、遠くから静かに優しいメロディーが聴こえて来る。
そう、体に染み付くほどに聞き続けて来た「あの曲」・・。

ヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」だった。

柔らかなホルンの音色がゆったりとしたイントロを奏で、
あの有名なワルツのメロディへとうつろう・・・。

光男はまだ夢の中・・・。


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光男はハッと目を覚ます。
うっとりとした夢など瞬時に霧散してしまった・・。

光男は布団を跳ね除け、勢いよく立ち上がるとオートマチックに身体を動かす。
布団を畳み部屋の壁際にキッチリと直すと、縦縞の寝間着を脱いで
「ねずみ色」の服に着替え、薄い座布団を並べて行く・・。

狭い窓から差し込む陽の光が、舞い上がった埃をくっきりと際立たせていた。


ここは関東のある刑務所。
被収容者数は1600名を超える巨大な施設だった。
ここでは毎朝の起床時にこの、ウインナーワルツが、
午前6時キッカリに流れるのだった。

起床時の音楽が何故ヨハンシュトラウスなのか全く定かではないが、
光男が初めてこの刑務所にお世話になった時からこの曲だった。
だからもう二十年も変わらずにこれなのだ・・。

とにかくこの刑務所の一日はヨハンシュトラウスで始まるのだ。


光男は懲役受刑者としてここに収容されている。
彼の罪状は実に軽微で、特に今回の逮捕理由はスーパーでたった2個の菓子パンを万引きしたという情けないものであった。

被害総額180円。
常習累犯窃盗にて判決は執行猶予無しの懲役2年

それは犯罪歴の無い人にとっては、とても刑務所になど収監される事件では決してない。
しかし、彼のような
「常習累犯窃盗犯」
になってしまうと、そこに「社会内処遇」という
刑事政策上の恩恵は微塵も適用されない・・。
被害額の軽重関係なしに問答無用の実刑判決となり、執行猶予など微塵も付かない、「怒涛のムショスパイラル」なのである。

光男の入所歴は20回を数える。
総前科数は40犯を超えていて、娑婆で暮らした期間の合計よりも、刑務所に住んでいる期間の方が長いのだった。彼らにとってはもう刑務所にしか生きる場を見出せない。
出所しても社会は彼らを受け入れないし結果、例の負のスパイラルに落ちて行くのである・・・。

全国の刑務所には光男のような社会に適応できない輩は山のようにいて、まるで態の良い生活保護と揶揄されていたりするのだが、それは増えこそすれ社会の犯罪者に対する拒絶は厳然と存在していて、解消される兆しは無い。

しかし悲しい事に、それすらも服役を終えた犯罪者に着いて回る、
社会的制裁なのか・・・。
真面目に更正したくてもそれを受け入れない社会の意識は今も昔も変わらずに存在している。


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光男は山本と言う職員が好きだった。
40代半ばの刑務官で、彼からはいつも優しくて暖かい処遇を受けていた。
光男は彼に対してはとても従順で、特別な信頼を感じていたのだった。

その日、光男は山本から呼び出され、所内の廊下の清掃業務に就いていた。
山本は掃除に精を出す光男に近づくと、

「光男~、そろそろだな・・」

と声を掛けた。
実は光男の満期釈放の日が1カ月後に迫っていた・・。
光男はパッと明るい顔になると、山本に向かい姿勢を正して、

「はい!ありがとうございます。」
「もう絶対ここに戻って来ないように頑張ります。」
「でも・・・おやっさんと別れるのが寂しいです!」

とニッコリと山本の顔を見て答えた。

山本は、またか、と言った顔で笑いながら、

「光男、その言葉を俺は何回聞いてるかなぁ・・」
「もう聞き飽きたよ・・」
「まぁ、今度こそ真面目に頑張れよ!」

と優しく励ますのだった。

光男は読み書きが出来なかった。
辛うじて、自分の名前と刑務所で宛がわれた自分の称呼番号だけは書けた。

学校は小学校3年から行っていなかったし、親との縁も薄く、親せきをタライ回しにされて育った生い立ちだった。
当然まともな職業には付けず、建築作業員や、清掃業で糊口を凌ぐ日々だった。
彼の痩せて小さな体格ではそれもギリギリに厳しいものだったろう・・。
更に悲しい事に、彼は人を疑う事を知らず、誰でも信用して従順で馬鹿正直な印象を与えてしまう男だった。
そんな人の好い性格を悪い奴らに付け込まれて簡単に騙され、利用された教唆による犯行も多かったのである。

刑務所にはどうしようもない極道や狂人が腐るほど渦巻いているが、光男のような従順で大人しくある意味妖精のような受刑者も間違いなく存在している。

さて、いよいよ光男の満期釈放の日が訪れる。

山本他数人の刑務官に見送られ、光男は出所して行った。
途中、何度も何度も振り返っては深く頭を下げ、やがて正門の外に消えて行ったのだが・・。

山本は、うんうんと頷き光男を見送ったが、何かいつもの出所時とは違う光男を感じていた。

もう何度光男を見送ってきたろう・・。いつもは笑いながら頭を掻いて、
「もう来ませ~~ん!!」

などと明るく出て行っていたのだが、
今日は何かいつもとは違う、少し物悲しい雰囲気を醸していた。

光男のような受刑者の再犯率はほぼ100%に近く、山本もまた直ぐ戻って来るだろうといつものように高を括っていたのだが・・・。

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半年後。

その日の朝、山本は所内の休憩室で勤務開始前の一服を決めていた。
休憩室には同僚の職員が15人ほどいて、部屋の中央に据え置かれたテレビに映し出されるニュースをいつものように眺めていた。
熱々のお茶を啜りながら、その日の予定が書かれた手帳を捲っていると・・・、
急に周りの空気がざわつき出した・・。

その時、テレビから聞こえるアナウンサーの声が、聞き覚えのある男の名前を読み上げていた。


〇〇市〇〇町のアパートから男性の変死体が見つかりました。
男性の名前は「〇〇光男」さん48歳・・・
死因は検視の結果、餓死と見られています・・・・。


テレビの画面には、光男本人の画像は映し出されていなかったが、
その公開された住所は、間違いなく彼の帰住予定地であった。

・・・光男が、光男が死んだ?

何故?どうして!! 餓死??・・・餓死だと!!!


今回の出所の時に感じた違和感はこれだったのか!!
山本はあの出所の時の光男を鮮明に思い出した・・。

山本は悔しく悲しいやり場のない思いを抑えきれなかった。
胸が張り裂ける・・・。
そして仲間の前で憚ることなくボロボロと涙を流した。

光男よ、何故パンを盗んででも生きようとしなかった?なぁ光男よ・・・どうして!
この期に及んで何故我慢した!!
最後の最後にカッコつけやがってこの大バカ野郎!!


俺が犯罪を勧めるなんてそれは言える事ではない・・。
でもな・・そこは生に執着しなきゃダメだろ・・・あぁ光男よ・・・。

山本は、狂おしいほどの悔しさに打たれ慟哭した。



暗く情けなく辛い人生を送って来た光男・・
お前の人生、何にも良い事なかったなぁ・・。

でもな、お前の最後は真っ当に輝いていたよ!
俺はお前を尊敬する!光男頑張ったな!
そんなお前に係わりを持てて俺は幸せだよ・・心から感謝します!

人の尊厳を身をもって教えてくれた光男・・・。

山本は心の中で、何度も何度も光男の名前を呼び、
身体の奥から止めどなく沸き上がって来る悲しみに、咽び続けるのだった。







光男の遺骨はその後、無縁仏として市の共同墓地に埋葬された。


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