見出し画像

戦前レスラー名鑑(マニアック編)

今回の記事では、X(旧Twitter)で公開した、超マニアック・マニアック戦前レスラー名鑑を総集編にして紹介します。
名鑑はどんどん追加していく予定です!

①濱中貢(Mitsugu Hamanaka)


1912年にカリフォルニア州フレズノで生まれる。両親が日本生まれのため、日系二世。
相撲の経験者で、アメリカの相撲で横綱となっている。
1936年2月にプロレスデビュー。
ラバーメン樋上(樋上蔦雄)とキモン工藤(工藤嘉門)に指導を受けた。
また、ミツ濱中(Mitsu Hamanaka)とも呼ばれていた。
1936~1937年頃に特に活躍。

②ファイヤーマン山下(Fireman Yamashita)


生年、本名不明。
柔道出身と考えられ、名前の通り、消防士をしていた。
1931~1934年にハワイで活躍。マキキ(Makiki,ハワイ ホノルルの地名)の山下とされていたので、マキキ出身だと思われる。
日本ミドル級チャンピオン(真偽不明)で、ラバーメン樋上と同じ大会にも出場していた。

③ブル遠山(Bull Toyama)


本名 遠山勲。
1908年に日本で生まれ、ハワイで育つ。レスリングとフットボールをしており、ハワイ大学では農学を学んだ。レスリングではかなり活躍した。ハワイ大学は、キンジ渋谷の出身大学でもあるため、渋谷の先輩に当たる。
レスリングデータによると、1933年11月にデビューし、1935年12.3にはドン菅井(マツダ・マツラ)とも対戦している。また、明治大学にはコーチとして来日していた。

ラバーメン樋上、沖識名、キラー・シクマ(志熊俊一)らが出場していた大会に遠山も出場しているため、樋上たちと関わりがあったと見られる。

④池田金城(Kinjo Ikeda)


本名 池田義也(凱旋とも)。
1896年(1894年説もあり)に高知で生まれる。日本で東京相撲(四股名が金城)を経験。
その後、アメリカに渡る。
1916年に、当時ハワイに来ていたタロー三宅(三宅多留次)が出場していた大会に前座として出場。
1921年頃には、伊藤徳五郎のパートナーで、アド・サンテルと戦ったことでも知られる、高橋精造と共に、ハワイの日本人レスラーとして活躍した。
ちなみに、ルー・テーズの師匠である、アド・サンテルは、1927年時点で池田のことを知っていた。また、日本人レスラー初のハワイ王者とされる。
1922年には、その高橋と対戦し、勝利している。この試合は大きく報じられた。
1924年頃は、ロサンゼルスで、生田喜代治(太平洋)、ハリー(ハレー)牛山たちとプロレスを行なっていた。
1937年にハワイに戻り、相撲の指導者(1927年までにはプロレスを引退していたと思われる)として活躍。
また、金城ではなく、錦城(読みは同じ)とも呼ばれていた。
池田の家族についてや、その他の情報については、私の池田の記事をご覧下さい。

調査の過程で、沖識名の師匠の一人である、檀山流柔術の岡崎星史郎も同時期に池田・高橋たちと共に活躍したことが分かった(柔術対プロレスという形と見られるが、プロレスのリングに上がっていた)。ちなみに、岡崎は高橋と対戦している。

⑤佐藤哲郎(Tetsuro Sato)


1904年生まれ。柔道の経験者(二段という情報もあり)。
世界ウェルター級王者として活躍した、マティ・マツダの弟子。
1935年4.11に当時の世界ウェルター級王者、ロード・ランスダウン・フィネガンに、
1935年9.19に当時の世界ウェルター級王者、ジャック・レイノルズに挑戦した。
どちらの試合も佐藤が敗れている。

このジャック・レイノルズに破れ、サンフランシスコに帰ったという情報もあった。
ちなみに、ジャック・レイノルズは、師匠マティ・マツダとも長くタイトルを争ったことで知られる。
また、ジャックのいとこ、デイブ・レイノルズとも戦っている。

日本人レスラーとも関わりがあり、キラー・シクマと同じ大会にも出場している。
1935年の新聞記事のインタビューでは、マティ・マツダが日本人レスラーで最も強く、沖識名・ドン菅井も強かったと証言している。
1935年に特に活躍した。

⑥手代木禎二(Teiji Teshirogi)


福島出身とされる。
柔道五段。ユタ農業大学(現在のユタ州立大学)出身。柔道師範を経て、ボクサー・レスラーになる。プロレスでは中西部のライト級(またはウェルター級)王者になる。
リングネームは、プロフェッサー・ヘリー。
試合記録があまり見つからなかったが、1918年・1929年・1938年頃にはプロレス(柔道着着用の試合形式もあり)の試合をしていた。
また、1918年頃には高橋精造と、1928〜1929年頃にはラバーメン樋上と関わりがあった。

生年、出身地、出身学校(日本での)が確定しない。日本プロレス風雲録では、盛岡農林出身とされていたが、そのような記録は無い(確認済み)。ゴング 1972年4月号の、原康史(櫻井康雄)氏の記事によると、マティ・マツダの再来と称されたらしい。
また、手代木牧童とも呼ばれ、保険業が本業と見られる。帰国後は、下落合に豪邸を構えた。
詳しくは、私の手代木の記事をご覧下さい。

⑦ドン菅井(Don Sugai)


1913年9月6日に、オレゴン州ポートランドで生まれる。フットボールとレスリングを経験し、1933年1月頃デビュー。
初の日系二世レスラー。

1935年1.31にEMLL(現CMLL)に、マツダ・マツラのリングネームで初登場。
日本人(日系人)と確定している人物の中では、最も早い出場だった。
このリングネームは、日本人初のプロレスラー ソラキチ・マツダと、日本人初のプロレス世界王者 マティ・マツダに由来すると思われる。
約1年ほどメキシコのマットでも活躍し、1935年度のエル・アルコン誌のエル・ルチャドール・デル・アニョ(MVP)に選ばれた。
しかし、エル・アルコン誌は1972年創刊のため過去を遡っての受賞である。

1935年12.3にハワイでブル遠山と対戦。
1937年8月にはラバーメン樋上とタッグを組んでいる。また、同年にビッグ・シティという映画に出演。1952年10.13に、事故で死去。
詳しくは、私の菅井の記事をご覧下さい。
私が一番知ってもらいたい戦前レスラーである。

⑧藤田保治(Yasuji Fujita)


1898〜1902年頃に生まれる。
明治大学柔道出身で、主将を務める。坂口征二さんの直の先輩になる。二段だったが、最終的には六段になる。初の明治大学出身プロレスラー。

1927年に渡米し、同年プロレスデビュー。
1931年11.26に、ロサンゼルスでアド・サンテルと戦う予定だったが、結局試合は行われていない。
1931年12.11に、地元のチャンピオンのジョー・パレリに敗れる。
1932年2.19には、当時の世界ウェルター級王者、ジャック・レイノルズと対戦し、敗れる。
1932年10月には日本に拠点を移す。
1933年頃まで、アメリカでレスラーとして活躍した。また、シマ・イオタというリングネームも名乗った。
レスリングデータによると、1931〜1932年にかけて、樋上と計5回対戦している(藤田が3勝、樋上が1勝、勝敗不明1回)。

試合の合間には、日本人居住区で若者に柔道(柔術)を指導していたとされる。
小泉悦次さんから教えて頂いた情報によると、キモン工藤やルー・テーズと関わりがあったらしい。
その後は、大島(伊豆大島)で村長(または町長)をしていた。1957年には、現職だったらしい(真偽不明)。1972年頃は存命。

⑨生田喜代治(Kiyoji Ikuta)


1898年生まれ。柔道三段(二段から昇段)。
相撲・レスリングの経験者で、生田太平洋とも呼ばれる。
早稲田大学出身で、第1回箱根駅伝にも出場している。長距離競技ではかなり活躍した。
1924年頃に池田金城、ハリー(ハレー)牛山と共にロサンゼルスでプロレスをしていた。ただし、短期間と思われる。1927年に死去。

⑩北畑兼高(Kanetaka Kitahata)


1904年に鹿児島(又は宮崎)で生まれる。
北畠義高が本名という情報があるが、私が確認した中ではそのような情報は無かった。
石井四段という人物の弟子であり(真偽不明)、柔道三段。怪力男として名を馳せる。
1932年(1931年説もあり)に渡米。
1933年頃に、サンフランシスコ、オークランド、ロサンゼルスなどで活躍。
同年9.11には、カリフォルニア州ロサンゼルス(ハリウッド)で、アド・サンテルと戦い、敗れる。

帰国後、1955年に大阪で東和プロレスを旗揚げ。同団体でレフェリー・コーチとして活躍した。その後、東和プロレスは解散し、北畑も1957年に死去した。

⑪スギ・ハヤマカ(Sugi Hayamaka)

本名 ジョージ・ロペス(本名が新藤という情報もあり)。日系二世とされる(メキシコ人と日本人のハーフという情報もあったが真偽不明)が、本当に日系人かは分からない。

1914年9月5日、テキサス州エルパソで生まれる(テキサス州エルセント出身という情報もあったが、調べてもそんな街は存在しなかった)。
ラバーメン樋上から柔道を学び、アメリカの警察官に柔道を教えていた。

レスリングデータによると、1934年4.10にプロレスデビュー。
1935年9.1に、スギ・シンドウのリングネームで、メキシコ(EMLL、現在のCMLL)のリングに初登場。パンチョ・ビテラと対戦。
1936年6.29には、ボクシングとルチャリブレでナショナル王者になった、フィルポ・セグラと対戦し、敗れる。
G SPIRITS vol.56の、ドクトル・ルチャ(清水勉)氏の記事には、"3度世界王者になったカルロス・ゴリラ・ラモスと対戦し、敗れる"という情報があったが、私が調査した中にはそのような情報は無かった。
1936年11月頃まで、メキシコで試合をしていたと見られる。

1940年5月に、レックス・モブレーを破り、ジュニアライトヘビー級王座を戴冠。
1940年頃には、伊藤太郎(グレート東郷)や、ドン菅井(マツダ・マツラ)とタッグを組んでいた。1939年12月の新聞では、伊藤太郎とスギ・ハヤマカが同じ大会に出場することを報じている。下の写真は、後のグレート東郷である伊藤太郎。

1950年頃は、ユタ州で試合をしていた。
1951年4.22に、ハワイのホノルルで、後に全日本プロレス協会を設立する、山口利夫と柔道マッチ(柔道ジャケットマッチ)で対戦し、敗れる。
1952年6月には、カウント・ルイージと組んで、
南部タッグ王座(NWA)を、1953年12.16には、インターマウンテン・ジュニアヘビー級王座を戴冠。
また、1950年代は、ハロルド坂田(ミスター坂田)や、オーヤマ・カトー(グレート・カトー)といった、一世代後の日系レスラーたちともタッグを組んでいた。

一部情報に、オーヤマ・カトーのマネージャーを務めた、ミスター・スギが、このスギ・ハヤマカと同一人物ではないかという情報があったが、私的には、身長(レスリングデータに載っているハヤマカの身長が170cm、ミスター・スギの身長は写真から見るに、160cm前後と見られる)と顔がどう見ても違うため、別人だと考えている。
レスリングデータによると、1955年に引退。  1986年1月14日に死去。

⑫トム・ヒライ(Tom Hirai)

レスリングデータによると、1912年1月2日生まれ。ワシントン州オーバーン出身の日系二世。
また、トミー・ヒライ(Tommy Hirai)やオキ(オオキ?)・ヒライ(Oki Hirai)というリングネームも名乗った。
あまりに情報が無いため、ジョセフ氏のサイトの情報を紹介させて頂く。

高校時代は弟のジョージと共にフットボールに打ち込み、卒業後は地元の製材所で働く。父親の影響で相撲にも取り組み、1933年11月にワパトで優等賞を獲得し、1935年8月にピュアラップで優勝。1935年9月16日にプロレスラーとしてデビュー。スタイルはアームロック、ボデイスラム、フットボール戦術を基にしていた。
1938年にカリフォルニアへ移り、プロモーターのボール・ボッシュによれば、柔術のエキスパートであり、体重は170ポンド程度だった。
1939年7月にシアトルに戻り、日米クーリエ紙主催の地元相撲大会で準優勝した。
1939年10.27に、シアトルのシビック・オーディトリアムで、"ロガー "ハロルド・ヒーバートと試合を行い、敗れた。
1942年にアイダホ州ハントのミニド力移転センターに送られ、1943年4月に初の相撲大会で優勝。戦後はアイダホ州ツインフォールズに移り、スギー・ハヤマカ(Sugy Hayahaka)としてプロレスを行った。

最後のスギー・ハヤマカはよく分からないです…
ジョセフ氏のサイト情報曰く、ドン菅井も同リングネームを名乗っていたようです。
ちなみにそのスギー・ハヤマカというリングネームは、11番目に紹介した、スギ・ハヤマカも名乗っていたリングネームです。
本当にヒライや菅井が名乗っていたかは不明です。

また、ジョセフ氏のサイトに下の写真があった。
説明曰く、1930年2月の写真で、前列の左から三番目がトムで、右から五番目がジョージのようです。

レスリングデータによると、1949年頃に引退したと見られる。2003年4月6日に死去。
この情報が正しければ、91歳の大往生だった。
ちなみに、1938年の9月から10月にかけて、ジョージ・オカムラ(後のグレート東郷)と分かっている限りで、3度対戦している(1勝1敗1引き分け)。


まだまだ追加予定(+10人ほど)です!
楽しみにしておいて下さい❗️

一応書いておきますが、私の中のマニアック戦前レスラーとは、タロー三宅や沖識名、キラー・シクマなどではありません💦
これらのレスラーは、いつか作成する(?)予定の、戦前レスラー名鑑(有名編)の記事で紹介致します。

では、また次の記事で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?