マジカルミライのセトリに対する雑感

今回(2019)のマジミラのセトリ(に相当するアルバムの曲目)に対する界隈のざわつきを観測したので、これまでほとんど縁のなかった自分が過去のセトリも調べてみて感じたことをぐだぐだと述べる。

まず率直に、自分も確かに従来と方向性が大きく変わってるなあと思いつつも、180度真逆かと言われるとそんなことないという印象を受けた。
それはこれまでのセトリを見てみたところ、一部の曲が今回と共通のコンセプトで選ばれているように感じたのが理由だ。

その話の前に、ボカロに限らず一般にライブというものをやる意義についての私見を述べさせてもらうと、

「たまたま隣り合った人と同じ『好き』を共有できる」こと

だと思っている。

これをボカロのライブで実現させるためには、世にある無数の曲の中でも、やはり数字を持っている曲、とりわけそういった曲を多数発表して固定ファンを多く抱えるボカロP達の曲を中心にセトリを構成するのは極めて自然な発想といえる。

これは、ライブの企画者ならまず持っていることを期待する「観客に対する視点」などと勝手に呼ばせてもらうが、マジミラのライブの企画者=クリプトン(以下栗)はそれとは別にもう一つの視点を従来から持っているような気がしてならない。(でないとやってることの説明がつかないような…)
それが「作曲者に対する視点」である。

これが具体的にどういうものか、私見を先に述べると
「自社のボカロを使って地道に活動を続けているPに光を当てる」

過去の演目で最たる例が、EARTH DAY と TODAY THE FUTURE の2曲が選ばれたはりー氏だと思う。
その他にも、孤独の果て(光収容氏)、なりすましゲンガー(KulfiQ氏)、Strangers(Heavenz氏)辺りもそうだと見ているが、これらはやはりProject DIVAシリーズに収録されたことで一定の人気を期待できたことがセトリへの採用を決めた大きな要因だろう。
今回のセトリアルバムの収録曲は、このような過去の選曲やここ数年の楽曲コンテストの開催と同じ文脈にあるというように感じている。

ではなぜ今年になって、地道に人気を積み重ねてきたPの曲への比重が大きくなったのか? 長年、定番曲・有名Pの曲を披露し続けてきたことによるマンネリ化の懸念、果たして理由はそれだけなのだろうか?

これに対する私の妄言は、栗が今後のボカロシーンにある種の危機感を持ったことの現れではないか?である。

一つは、メインプラットホームであるニコニコ動画でのボカロ文化全体の萎縮への危機感。
特に2019年に入ってからというもの、ランキングの恣意的操作が目的とされる工作行為が極めて活発化しており、たとえ自分の作品で数字が積まれていないとしても、評価の一つ大きなバロメーターであるランキングの形骸化によって、それをモチベーションにしていたボカロPにとっては向かい風が吹き続けている状態である。

もう一つは、栗ボカロの相対的な地位の低下への危機感。
これについては、まずはflowerの名前を引き合いに出さないことにはどうやっても話を進められない。
彼女の登場によって、これまでボカロに無かった(或いは主流でなかった)作風が持ち込まれ、流行りの曲調まで一変してしまったという所感だが、それ以外に、以前なら他のボカロが歌っていたであろう曲にflowerが選ばれるようになったという印象を抱いている。
そしてこの「他のボカロ」こそ、栗においては鏡音リンおよびレンであると自分一個人としては思っているのだ。
同様の関係として、音街ウナとこちらも鏡音リン、そしてIA・結月ゆかりと巡音ルカが挙げられるとも考えている。

そして、ボカロ経験者のアーティスト活動の多様化というのも、危機感とまでは言わずとも影響を及ぼしているのだろう。
それこそ「ボカロ踏み台論」というフレーズに聞き覚えのあるボカロ好きもいるかも知れない、それまで言わばボカロをプロデュースしていたクリエイター達が、その対象を自分自身や他の人間ボーカリストに切り替えるという動きである。
その流れが、ハチ氏が米津玄師を名乗った頃よりここ数年でより加速したとする意見には私も同意するところであるが、要はこれが主流になるとこの先ヒット曲を多数持つボカロPという存在が新規に現れなくなってくるので、今までのようなセトリでは(特にPのラインナップの面で)本当にマンネリ化しかねない可能性もある。

こういうことを考えたものだから、去年(2018)のセトリにはるまきごはん氏の曲が入っていたのは、いつかの超会議で氏の生バンド本人歌唱を聴いたという経験もあって、ソロ活動される前に大事なミク使いとしての氏との関係を留めておきたかったのではと邪推せずにはいられない…。


こうした状況の中での今度のマジミラのセトリは、栗ボカロを使って創作活動を続けていればその才能を見逃さないという栗の意思表示であり、その背後には今良い作品を作り続けているP達に(できれば栗ボカロと共に)活動を続けて欲しい、或いはたとえ新曲投稿が途絶えたとしてもボカロの世界と接点を持ち続けて欲しいという願いがこもっていると捉えるのは、私の考えすぎだろうか…



蛇足

あのアルバムの感じからして、今年は去年まで以上に新曲モリモリになる予感しかしないが、それは当然(主にCGアニメーション関係の)仕込みの量が増えるという意味で、それが可能になったのはその辺にリソースを割くことのハードルが下がってきているという技術的な要因もきっとあるように思える。2018年はバーチャル元年などと呼ばれたりもしていたが、その道で長らく先端を征くSEGAにもそうした界隈での目覚ましい技術革新からの何かしらのフィードバックがあったりしたのだろうか…?

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