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大人の「現代文」……『羅生門』3 ホントに下人は盗人になれたの?

ホントですか?

 この小説は、大体高校一年生で学習します。大人の方は記憶にありますか?

 まあ芥川の描写力は一級品ですので、何か漂う底気味の悪さ、ある種の不安感は、高一生という純真な少年少女の心にみごとにヒットするでしょう。で、不気味感というものは、おうおうにして「正体がわからない」ものから生じるものなのですが……。

 でも、一方でこの小説の内容自体はとても「正体がわかりやすい」ものなのです。なぜなら、主人公下人の心理は全て作者によって説明されるからです。読者は主人公の心理をあれこれ詮索する必要は全くありません。下人の葛藤の中身も、「勇気を振りしぼって」盗人になった経緯も、完全に明白です。彼が盗人になれたのは、老婆から「生きるための悪は許される」「悪人に対する悪は許される」という盗人になる自己正当化の「論理」を学習したからというわけです。

 ところが筆者は最後で、あっさり主人公と決別します。これが有名?な「下人の行方は、誰も知らない」です。

 いままですべて心理を説明してきた作者は、最後のところで説明終了宣言をするわけです。「誰も知らない」のだから「私作者も、もちろん知りません」というわけです。

 ここで初めて、読者は筆者の徹底した心理説明から解放?されて、想像力を発揮できる状況になるわけで、よく授業ではシメとして、今後の下人の運命について感想と共に書いたり話合ったりするわけです。

 でも、よく考えると、この下人、京都の街に疾走して誰かターゲットを見出したとき、果たして、盗人行為を敢行できるでしょうか?
 老婆の教え「生きる為の悪は許される」は良いとして、「悪人に対する悪は許される!」と呟いたとき、彼はぎょっとするのではないでしょうか。
 見知らぬターゲットが悪人であるかどうか判定する方法は、老婆から教わっていませんよね?

 


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