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大人の「現代文」……『羅生門』2 ホントにエゴイズムがテーマか?

 

悪がテーマになるのか?

続きです。

 よく、高校生用の参考書などに、「羅生門」には人間性の悪たるエゴイズムが描かれているなどという解説がされています。でも、食べるものがなく、もう少しで餓死するなどという極限状況を想定して、そこに「人間の悪」などというものをテーマ化する意味が果たしてどれほどあるのでしょうか?確かに、人間は究極的な状況になれば何をするかはわからないでしょう。でも、そんなことは、あまり考えたくもないことですよね。

 芥川はこう言います。日本人の皆さん!あなたがたはお互いに善意で、悪いことはしないという「性善説」を当たり前の感覚(これが下人です)としているようだが、ホントにそうですか?そんな「感覚」はリアリスト老婆の「論理的説得」には全く無力ですよ、と問いかけるわけです。 

 でも、表面的にはこう言っているようで、実情は多分ちょっと違っていて、ありていに言えば、芥川は圧倒的な西洋の影響を受けて「悪なるもの」にある種の憧れがあったのではないかと、私は思っています。もっと正確に言えば、「悪」が何か「個の主張」たる「かっこいいもの」という意識すらあったんじゃないかということです。

 でも、「悪」をいくら人間ドラマとしてテーマ化したくても、日本にはそもそも西洋的な「悪」の概念などあるんですかね。日本にあるのはほとんど問答無用な「人間の人間に対する善意」ではないですか?そういう風土で皆が、「なるほど!」と納得する悪を形象化するためには、よほどムリな悪の必然性が必要だった。そしてたどり着いたのが「飢え死に」ではないでしょうか。逆に言えば、悪というテーマを引っ張り出すためには「飢え死に」を持ち出さねばならないほど、人は善意ということです。

 実際、例えば一時期最悪のコロナ禍の状況で、それこそ追い詰められて、食べるものも買えないような逼迫した生活を強いられる人もいたかとは思いますが、そこで犯罪率は上がったでしょうか。


 


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