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大人の「現代文」……『羅生門』12『檸檬』との比較

『檸檬』との比較

 いずれ触れるつもりでしたがちょっと梶井の『檸檬』を見てみましょう。『檸檬』の冒頭に有名な?「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」という一文があります。主人公は、日々その「塊」に精神的に苦しめられていると告白するのですが、すぐに、その「不吉な塊」は二日酔いでもなく、肺病の憂鬱からくるものでもなく、いわんや大量の「借金」のせいでもないと宣言します。この「不吉な塊」は、そんな具体的な理由に拠らない、もっと「抽象的な」苦悩だぞ!すなわち「高貴な!」憂鬱なんだぞと言いたいようです。

 日々の生活に根本的な圧をかけてくるこの「不吉な塊」、はイヤなもの、不吉としかいいようのないイヤなものです。それでいて平凡な理由づけなどとうていできない圧迫感……で私を苦しめる、とくれば、これは「西洋」の圧迫以外のものでは無いですよね?

 そしてもちろんそれは、「普通の人」の感じるものでも無いでしょう。普通人は日々の暮らしで精一杯ですから、そんな「西洋」がもたらす「抽象的」な苦悩などしないでしょう。一般人にとって「西洋の圧」よりよっぽど苦しいのは、まず、身近な不治の肺病であり、返しようのない借金なはずです。むちゃくちゃな借金よりももっと、私を苦しめるものは、西洋の圧なんて言ったら、はあ?ということになるでしょう。

 でも梶井の時代はそうじゃなかったということですよね。いわゆるエリートが存在して、皆の苦悩を代表して演じていたんでしょう。だから主人公は堂々と「不吉の塊」を(不吉なくせに)「美化」するのです。あたかも、「どうだ、オレは西洋に苦悩しているんだぞ」とでもいいたいかのようです。こういう感覚は現代の子どもたちにはありません。ですから、この「塊」は理解できないのです。

  梶井のある意味での自己陶酔は、芥川にはなかった。芥川は「本気」で、「西洋」を理解しない「俗物」を嫌っていた。この「俗物」という吐き捨てるような言葉を芥川はよく使います。でも、芥川ほどの人が、なぜ「俗物」は時折々の「道徳」以上の「倫理」を持っていると気づかなかったのは不思議です。いや気づいてはいたんでしょうね。『檸檬』ならぬ『蜜柑』にはそんな芥川の顔が見えるような気がするのは私だけでしょうか?



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