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大人の「現代文」41……『舞姫』   後半展開2 エリスの不安

膨れ上がるエリスの不安

 

 さて、豊太郞の心の中の変化に対して、エリスはどうでしょうか?客観的な変化から見ていきましょう。
 まず、「妊娠」の確定です。以前は、「かもしれない」状態でしたが、医者に診てもらい、完全に妊娠が確定しました。そして、長期の休みを理由に踊り子はクビになってしまいます。といっても、これははっきり言って、自分の思い通りにならなかった座長のいやがらせでした。
 でも豊太郞の新たな職の報酬で、当面の生活のめどは立ちましたから、エリスも一安心でした。出張が決まった当初は、エリスも何の心配もしていない風でした。
 そこのところこんな風に書いてあります。

「旅立ちのことにはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我が心を厚く
信じたれば」

 ところが、状況の変化は、彼女の心中にだんだん不安を募らせます。状況の変化とは、ロシア出張で、豊太郞が「そばにいない」というその単純でわかりきった事実でした。エリスはその心細さにすぐに目覚めます。

「あなたが行ってしまい、後に一人残された心細さを、最初の日から思い知りました。朝起きたとき、あなたがいない「現実」を夢かと疑ったほどです。ひとりぽっちのこんな心細さ、あんなに生活が苦しくて、今日の食べ物がなかったときにも味わったことがありません!」

 これがすぐ来た第一の手紙でした。彼がそばにいなくなった初日からこんな感じですから、それから先は推して知るべしです。彼女の不安は、みるみるうちに、暗雲のように膨れあがります。

 「そんなことない!(豊様が私を捨てるなんて)私こんなに深くあなたを愛しているんだから。あなたは絶対にドイツにいて日本になんか帰らないはず!だってあなたは、日本にはご親戚もないんでしょ?ドイツで仕事さえあれば、日本に帰らなければならない理由なんてないんでしょ?でも、もし、あなたがどうしても日本に帰らなければならないなら、あなたについて行きたい。親と一緒に行くのは簡単だけど、でもあんなに高い旅費をどこで手に入れたらいいの?だから、やっぱりあなたと行けない。でもいけないとしても、あなたが世にお出になる日のために、私、どんな仕事してでも頑張る。一緒にいなくても我慢できると思っていたけど、今度のロシアのご出張も、ほんのちょっとの間の寂しさと思っていたけど、でもとてもそんなもんじゃなかった。私のお腹はもう、普通でないくらい、大きくなっています。だからどんなことがあっても、私を捨てないで!あなたがどうしても日本に帰るなら、お母さんも一緒に連れて行きたいけど、そんな旅費なんてあるはずもないから、お母さんは遠い親戚に身を寄せてもらうことにしたの。私一人の旅費なら、天方様からなんとか出してもらえないの?あなたなら信用されているんだから、お金の工面はしてもらえますよね?私、あなたがいないひとりぽっちには、もう絶対に耐えられない。私、あなたを心の底から愛しているの。あなたがベルリンに帰る日をただただ待っているの」

 エリスの懸命な説得の底に、エリスが「ひとりになる」ことに恐れ戦いている気持ちが浮かび上がります。これ三週間後の手紙でした。

※前回のエリスの手紙の内容が、懸命の説得部分を省略し過ぎましたので、御指摘を受けて直しました。



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