見出し画像

大人の「現代文」……『羅生門』8「悪」って日本にあるのか?

「悪」って日本に、ほんとうにあるのか?

 ちょっと芥川と別のことを書きますね(でも同じですけど)。いつだったか東京の国立博物館(国博)の日本絵画のフロアー、気まぐれでずっと見回ったことがありました。多分芥川さんの『羅生門』のせいかもしれません。日本の画家さんたちは「悪」をどう視覚化しているのか、ふと興味が湧いたからです。

 で、この「悪探し」の探求結果には驚きました。私は絵に関しては全くの素人です。ピカソの抽象画にしても、確かに迫力は感じますが、それがなんで素晴らしいのかよくわかりません。だからかもしれませんが、ずーっと見回っていて、「おお、これが悪だ!」とうならせるような絵は一つもありませんでした。いや正確にいうと一つだけありました。でも殆どの絵を見て、「きれいだな」とは思うものの、「うわっ!これはきれいでない!」「悪の美だ!」と思うような絵はなかったということです。
 
 お断りしますが、そのときのわたしの鑑賞法はとてもシンプルです。芸術は「道徳」ではありませんから、「ありのまま」の「人間」をリアルに描いていれば、悪だろうが善だろうがそれは「名作」なはずですよね。まずこう考えます。
 
 次に、その「悪の美」は、「悪」という「いやな感じ」と「美」という「いい感じ」の合成物のはずですから、たとえ見た瞬間「悪」としてイヤな感じがあっても、芸術として、もう一度その絵を二度見させる迫力があるはずです。それがなければ「名作」とはいえないはずですもんね。

 これなら絵に素人な私でも鑑賞できる、そういう単純な視点で一つ一つ見ていったわけですが、二度見どころか、思わず目を背けるいわゆる「悪」なる絵が、皆無に等しかった、というのが上の「探求の結論」でした。これはホントに驚きでした。考え込んでしまいました。もちろん日本全国の美術館には、悪の絵はあるんでしょうが、少なくとも、相当程度の「精選」を経た国立博物館にはなかったのです。お断りしますが、あくまで「日本美術」というジャンルでですよ。

 私の考える「悪」は、いわゆる「醜悪」と私が感じるもので、「悪なるもの」とは異なるかもしれませんが、私にとっては同じようなものです。その視点で見たとき、「悪」の絵はほぼなかった。殆ど全部が「いわゆる美」なるものだったということです。優しい心地よい絵が殆どだったということです。

 そこで芥川に戻ります。芥川さんはどうだったんだろうか?芥川は「芸術至上主義」を標榜したと言います。西洋の芸術には(美術も含めて)いわゆる「悪」のジャンルがあるでしょう。でも日本にはあったんでしょうか。もし日本芸術にそれが(あまり)なかったとしたら、日本文学にもないでしょう。にもかかわらず、芥川さんのように「西洋」を絶対とするならば、つまり「悪」を描きたいなら、何としてもそういう状況、すなわち、「だれでももしかしたら悪に走らざるを得ない状況」を無理やりにでも構築せざるを得ないですよね。つまり「悪」でもそれは単純虚構じゃ駄目です。やはり日本人にもある種の想像可能な「リアリティ」がなきゃダメでしょう。虚構とリアリティの折り合える状況。それが、「生きるためには、泥棒しなければ飢え死にする」という絶対状況だったのではないでしょうか。でも西洋の「悪魔」ってそういうものなんですかね? 

 これは「研究」ではありません。単なる「エッセイ」です。でも私にはそう思えてしょうがないんです……。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?