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大人の「現代文」……『羅生門』4 普通人は盗人にはならない

下人とは何者?

下人はごく「普通の」人です。

 この小説、普通は下人が悪に走った小説と読まれますが、本当は、「悪に走れない」のが普通の日本人、と読んだ方がむしろいいと思います。少なくとも私はそう読みます。

 日本人は、どんな自然災害に遭っても、秩序を守り、黙々と生活を再興し続けてきたとい思います。その際同胞に略奪とか暴力行為などしない。高い倫理感覚を持っています。にも拘わらず、下人は略奪に走ろうとする。でも老婆から教わった「しないと飢え死にするような状況での悪は許される」は、いいとしても、もう一つの「悪」決行のための必要条件である「悪人に対する悪は許される」という論理は役に立たないですよね。いざ悪をしようとするときターゲットに対して「あなたは悪人ですか?」といちいちインタビューできないでしょ。つまり下人の学習した「悪の論理」は役に立たないはずです。

  だから、実は芥川は逆説(下人は実は悪には走れないんだぞ)として、この小説を書いているようにも、深読み?したくもなるのですが、そうじゃないでしょう。本気で「世間の人間の倫理感覚なんてこんなあやふやなものだ」と言いたかったのだと思います。

実際、芥川はこう言っています。
「僕の扱いたかったのは「道徳心」である。僕の意見としては「道徳心」(少なくとも俗物の「道徳心」は)時折々の感情や気持ちの産物でありそれはまた時折々の状況の産物でもあるのだ」
※これは高校生用の「便覧」に載っています。

 でも、そうすると、彼は日本人の心の底にある最も大切な倫理感覚を否定することになってしまうんではないですか?「道徳心」を換言して「倫理」
感覚とすると、日本人の「倫理感覚」は本当に、「時折々の感情・気持ち・状況の産物」なんでしょうか?その根本に「確かなもの」はないのでしょうか?

 ※実は、これこそ漱石が悩み抜いたテーマだと私は思いますが、それについてはまた……。

 

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